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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



十二月の余市
 
 

 北門に歌壇起したよ

 これは、明治四十年九月、石川啄木が函館の友人岩崎正に宛てて書いた手紙の一節。函館を焼け出された啄木は、札幌の新聞・北門新報に校正として入り、さっそく短歌欄を起こすわけですが、これは北門新報に限ったことではなく、後の小樽日報や釧路新聞でも同じように仕事に就いた早々から短歌欄を仕切ります。まるで、自分以外にこれが勤まる人間がいるであろうかと云わんはかりに。
 特に、小樽日報の場合は激しい。藻しほ草(一)。これが十月十五日の創刊号で早立ち上げた短歌欄ですが、小樽の高見青風、札幌の橘りう子(「橘」だって!)、旭川の山田西州…と、生まれたばかりの弱小新聞がよくもこんな多彩な道内主要都市の投稿を集められるものかよとは(普通気が確かな人なら)思いますよね。はい、あなたの想像の通り!これらの歌は、ぜーんぶ啄木ひとりがでっちあげた歌なのではありました。みーんな、こんな調子。
 「藻しほ草」は啄木が小樽日報社を辞める直前まで続きます。藻しほ草(八) これは、十二月十日(殴打事件の二日前!)の第四十二号に載った「藻しほ草」。

 蜘蛛(ささがに)の糸こそかゝれ我が胸の息の刻みの絶えなむほどに

 高田紅果の、巧いんだか、若いんだか、なんだかわからない歌も載っていますね。(なんで「紅花」となっているんだろう?) まあ、高田紅果のことはさておいて… ここで問題となるのは、次の「新人」氏の歌なんです。

 神無月にびいろ雲の下ひくゝ白額平ぶ後志の山

 「かみなづき/にびいろくものしたひくゝ/しらぬかひらぶしりべしのやま」。十月、鈍色の雲の下、雪化粧した後志の山々…といった歌でしょうか。
 昔は、この歌、啄木の歌として多くの全集や文庫にも載っていたのですね。そして、ここから、ひとつの問題が余市方面で起こります。昭和六十年十一月、この歌を刻んだ啄木歌碑が余市水産博物館前に建ったのでした。

 それから二年後、この碑に思いもかけない大逆転が…

「小樽日報」に発表された短歌
 『小樽日報』第一号には、短歌欄創設のための誘い水と思われる形で、五人の作者たちの計二十一首の短歌を投稿作ふうに編んで発表している。これらの作は、『心の花』発表の「緑の旗」諸作と照応させてみれば、すべて啄木作と見なしうる。
 ところで、同紙明治四十年十一月一日以後の諸号に、小高草影、緑衣生、庄内渓月、新人生、新人、吉野花峯などの投稿短歌が発表され、従来の啄木全集などに、これらの人びとの作も啄木作品として編まれているが、これらの人物は他に実在していることを、荒木茂氏が綿密に調査して、『北海道自動車短期大学紀要』第13号(1987年刊)以下、第14号、第16号、第17号(1991年刊)に発表している。(中略) 従って本書では、庄内渓月以下四名の作品を除外した。
(岩波文庫/久保田正文編「新編啄木歌集」解説より)

 1987年(昭和62年)といえば、すでに啄木の死から七十五年。半世紀以上の長きに渡って解釈や論文がつみ重ねられ、どうでもいいような三流週刊誌まがいの「研究」までが平気でまかり通る啄木にして、こんな大逆転がありうることにいささか唖然とします。
 冷静に考えれば、小樽の山々を「後志の山」と呼ぶのならともかく、「藻しほ草(八)」の明治40年12月10日までに啄木が後志地方を通過した時期は夏か秋だけなので、「白額」という表現を使うことはありえないのですが…
 でも、私なら、そのことに気づいていても、あえて云わないかもしれないとは思いましたね。後ろに野口雨情の歌碑も建っていることですし、余市の歌碑は、在りし日の「小樽日報」碑として、幻の「啄木」歌碑として、モイレ山から函館本線の鉄路をいつまでも見まもっていてほしい。かつての日、啄木も雨情も忙しくこの町を通っていったのは本当のことだから。