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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



八月の後志
 
 

 この前、本当に久しぶりに「おたるの青空」を更新しました。アップしたのは、沼田流人の「キセル先生」という作品。小樽新聞の大正14年1月30日号に載った掌編小説です。

 http://www.swan2001.jp/oa456.html

 一読いただければお解りの通り、沼田流人の小説はルビがとてもきつい。旧漢字をワープロから探すのも骨ですが、ルビを付けるのに大変な時間がかかる。こんな原稿用紙三、四枚程度の小説でも、みっちり半日くらいの手間暇がかかります。でも、括弧付きのふりがなでやると、もっと凄いことになる。

 その痩(やせ)こけた躯幹(たけ)の矮小(ひく)い、煙に燻(くすぶ)ったような倦(だる)さうな骨ばった顔を、その綽名は非常に的確に韻律的(リズミック)に表現(いいまわ)していましたから。それにしても、何という奇妙な雁首(がんくび)のついた、煙管でしょう。

 うーん、とても読んでいられない… やはりルビでなくては…

 こんなにしてまで、なんで、沼田流人を頑張るかというと、それはもう、「血の呻き」がすばらしかったからに他なりません。この感激を一人でも多くみんなに伝えたい!、「プロレタリア文学」などと誤解(まち)がったまま読まないで死んでしまわなくてよかった!という想いでいっぱいなのです。

 彼は、胸の上に頭を垂れて、ぼろぼろな小さな家々の靠れかかりあつて並んでゐる、日の光りも当らないやうな、狭い巷の泥濘路を、のろのろと歩いてゐた。
 ひよろ高い痔せた躯に、ひどくぼろけた短い黒外套を纏つて、黒い嚢かなぞのやうに、型の頽れたソフトを眼深に被つた下から、肩の上までも長い黒い髪が縺れて、垂れかかつてゐた。その洋袴も、小さな靴も、この所有者のやうに疲れ、破れてゐる代物だつた。
 それに、彼の左の肩から垂れてゐる、重たい義手ももう壌れかかつて、惨めな有様になつてゐた。
 歪んだ古い枢のやうな屋根の蔭に沈む、八月末の夕陽は、塵埃と疲憊とに汚れたやうな、悩ましい灰黄色な顔を歪めてゐた。低く垂れた空は、その厭はしい陽光に塗られて、重い汚れた掩布のやうに見えた。その下をぼろぼろな、この暗い陋巷の居住者等が、のろくさと路を渉いてゐた。
(沼田流人「血の呻き」)

 「血の呻き」のはじまり。主人公・藤田明三が八月末の函館の街に登場します。その名も「明三」。これ、沼田流人の本名です。本名・沼田一郎。大正十年二月、流人は得度(とくど)をして、名を「一郎」から「明三(みょうざん)」に改めました。当時も改名には厳しい法的条件がつけられていましたが、僧籍となるための変更は容易だったのです。以後、名は「明三(みょうざん)」から「明三(めいぞう)」に変化して定着。つまり、沼田流人「血の呻き」は、自分の人生の物語だと宣言してはじまるに等しい。
 さらに驚くべきことは、明三の左の肩から垂れている「重たい義手」。これも、凄いことだ… 沼田流人は十五歳の時に、近所のマッチ軸木製造工場で友だちとふざけて遊んでいて、あやまって腕をベルトに挟まれてしまい左腕を切断しているのです。若くして片腕の姿を運命づけられた流人のその後の人生は、常人のそれとは決定的にちがったものとなって行くのですが、その沼田流人の象徴でもある「義手」を物語の冒頭に掲げた流人の覚悟のほどを私は重たく受けとめました。

 沼田流人のことを、「タコ部屋を告発したプロレタリア作家」などとわかったようなことを云う人間を愚かだと思う。なにも読めていない。私も、あるいは、そう信じて死んでいったかもしれない人間のひとりだったことを肝に銘じつつ、(正直言って私には)難しい課題なのだが、行けるところまでは行こうと思っています。「キセル先生」は、ほんの挨拶代わり。