キセル先生 沼田流人
キセル先生は、鉱山の夜学校に居た五十位の頭の禿た、耳の遠い老教師です。
夜学校には、鉱山で稼いでいる人たちや鉱山街の子供達なぞ、四十人近く来ていたんですが、誰も露ぞ五分間も、先生の口から煙草の煙が消えているのを見た者がありません。
鉱山街の人々も、先生が唇を動かしている煙管だということには一人として反対しませんでした。
その痩こけた躯幹の矮小い、煙に燻ったような倦さうな骨ばった顔を、その綽吊は非常に的確に韻律的に表現していましたから。それにしても、何という奇妙な雁首のついた、煙管でしょう。
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それは陰気な雨が降る蒸し暑い夜で、薄暗い倦げな電灯の下で、皆茫然坐っていました。中には、机の上へ頭をふせて鼾をかいて眠っている人もありました。
「つまり、この煙管の中の青い液体に、此方の煙管の……。《
先生は、その時、二つの試験管をもって、振っていました。煙草が湿って思うように火がつかないので、やたらに煙管を囓むようにして吸いながら、上機嫌な顔をして話していたんです。
突然、人々が、頽れるように笑い出しました。中には、手を叩いたり、足で床板を踏み鳴らしたりする者もありました。
先生は、驚いたように話をやめて、茫然人々を見ていましたが、やがて燐寸を擦って悠然煙草に火をつけて喫しながら、人々の沈まるのを待って、また倦げに話を続けはじめたのです。
その日から、金田という吊前が消えてしまって、キセル先生と称ばれる事になったのです。
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夏の末方のある日、破れた、何かの古箱のような校舎を修繕した事がありました。その正午の休みの時、窓の下に寝そべって先生は煙草を喫んでいました。先生の煙管は、もう羅宇が裂けてしまって紙が捲かれています。その真鍮の雁首も、ひどく潰れた古びたものなんです。それが、烋れ果てたように垂れ下がった唇に嚅えられてそこからはぎの辛っぽい煙が痙れ上っていました。その、煙草のように黄色っぽい、窪んだ小さな眼は、茫然、消えて行く煙を凝視ていました。
凝視と先生のその姿を見ていると、私には漸々先生が、その古びた雁首の潰れた煙管に似て来るように思われてならないのでした。そして、先生が試験管を振まわしたり、本を読んだり、道を歩いたりするのは何かの錯誤で、実は大きな奇異な煙管でその吸口から奇怪い妖魔でも、むやみに煙草を喫してるんじゃないかと思われたりしました。
突然に、先生が首を擡げて、誰かに話しかけるように呟きました。
「ね、人間てものは、燐寸の棒だよ。瞬間火が燃えて、すぐ消えてしまう。そして、そして、燃屑だけが残るんだ。《
「いいえ先生。《
薄笑いしながら、先生を注視っていた松谷さんが、真面目腐って反対しました。松谷さんは、精煉場の方で稼いでいる、もう三十を越えた、恐ろしく躯幹の高いおどけた人です。
「人間は煙管です。古ぼけて、潰れた雁首で燻っている……。《
先生は、松谷さんの額を、指で弾く真似をして微笑いしました。しかし、それは何だか、煙管が笑い出しでもしたような、薄気味悪い笑い方でした。
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先生は、唯一人でこの寂しい校舎に住んでいました。で、私たちは、よく休みの夜なぞ先生の所へ押かけて行って、いろんな話を聞くのでした。先生は、印度や支那なぞの古い物語を、無数に知っていたのです。
何時か、先生が話してくれた支那の物語の中で、ひどく酒の好きな乞食が、同僚と一所に林の中に眠っていた話がありました。次の朝同僚が起きて見るとその乞食は消えてしまって、そこには唯古びた亀裂のはいった酒壺だけが残っていたというんです。
その夜、先生の所に泊った私は夜が明けたら夜具の中に先生が消えてしまって、唯古びた煙管だけが残ってるんじゃないかと思われて、幾度も奇異そうに先生の寝顔を凝視たほどでした。
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秋の晴れた日の暮方、飄然煙草の烟のように先生はこの鉱山から消えてしまいました。支那に行くという、置手紙があったとはいいますが、何処に行ったものですか……。
もう十年も前の事です。私の十四の歳のことですから。
※テキスト/小樽新聞 大正十四年一月三十日 入力/新谷保人