五月から始まる啄木カレンダー
デジタル篇
 
 

 
明治41年日誌 (1908年)
(「啄木勉強ノート」HPより引用)
 
明治41.1.4 社会主義に関心をもつ
単に哀れなる労働者を資本家から解放すると云ふでなく、
一切の人間を生活の不条理なる苦痛から解放することを理想とせねばならぬ。
 
 1月4日
 ”明星”が新詩社同人名簿と一緒に来た。此名簿には新詩社臭が氤?として寵つて居る。
 大北堂から”太陽””新小説””趣味”の三雑誌を届けて来た。夕方本田剰南君に誘はれて寿亭に開かれた社会主義演説会に打つた。会する者約百名。小樽新聞の碧川比企男君が体を左右に振り乍ら開会の辞を述べた。添田平吉の”日本の労働階級”碧川君の”吾人の敵”共に余り要領を得ぬ。西川光二郎君の”何故に困る者が殖ゆる乎””普通選挙論”の二席、何も新らしい事はないが、坑夫の様な格好で、古洋服を着て、よく徹る蛮声を張上げて、断々乎として説く所は流石に気持よかった。臨席の警部の顔は赤黒くて、サアベルの尻で火鉢の火をかき起し乍ら、真面目に傾聴して居た。閉会後、直ちに茶話会を開く、残り集る者二十幾名。予は西川君と名告合をした。
 要するに社会主義は、予の所謂長き解放運動の中の一齣である。最後の大解放に到達する迄の一つの準備運動である。そして最も眼前の急に迫れる緊急問題である。此運動は、前代の種々な解放運動の後を享けて、労働者乃ち最下級の人民を資本家から解放して、本来の自由を与へむとする運動で、今では其論理上の立脚点は充分に研究され、且つ種々なる迫害あるに不拘、余程深く凡ての人の心に浸み込んで来た。今は社会主義を研究すべき時代は既に過ぎて、其を実現すべき手段方法を研究すべき時代になって居る。尤も此運動は、単に哀れなる労働者を資本家から解放すると云ふでなく、一切の人間を生活の不条理なる苦痛から解放することを理想とせねばならぬ。今日の会に出た人人の考へが其処まで達して居らぬのを、自分は遺憾に思ふた。
 帰路、区役所の桜庭保君と一緒だったが社の鯉江が後から追駆けて来て、
(あの人は何と云ふ人ですか)
(桜庭君と云って区役所に居る人です)
(あゝ、さうですか。三面に画をかく桜庭と云ふ女の兄さんですな)
(然うです。)
 鯉江は道々進んで桜庭君に話しかけて名告をあげて、互ひに往訪を約した。愍れむべき男だと自分は思ふた。女に近寄るツテ、之が凡ての男の一様に欲して居る所乎。滑らかな雪路を勇ましい鈴の音立てる馬橇に追はれ追はれ、自分は彼のちか子女史の事を彼此と考へた。
 
 1月5日
 新年の雑誌を読むに急がはしい。一作を読む毎に自分は一種の安心を感ずる。新小説などは随分人を馬鹿にしたものだ。十幾人の作者が顔を列べて居て、読むべきものは僅かに柳川春葉の”残者”一篇たけ。
 函館の吉野君から手紙が来た。封を截ると冒頭に”天下太平”。例の四十五円の質物を宮崎君が十円出して利上げをして呉れたと報じて来た。なつかしき友かなと自分は繰返して考へた。誠に寔に持つべきは友である。
 夜、沢田君が来た。自分の事が何とも決定せぬので、余程辛い思ひをして今迄来なかったのだ。日報杜の事やら社会主義の話。
 
 1月6日
 昨夜枕に就いてから、夢成らずして魂何時となく遠く飛び、色々な過去の姿が追憶の霞の奥に現はれつ消えつとする。函館が恋しかった。実に恋しかった。夜霧深き大森の白浪、露光る谷地頭の朝風、宮崎君吉野君岩崎君、大塚君の太い声も聞きたい。弥生校の、今は焼けはてた職員室も忍ばるる。青柳町といふ名は、何かしら昔の恋人の名の如く胸に繰返される。眠つたのは二度目の金棒の響過ぎて余程経ってから。
 今朝は寒さが大分弛んで来た。
 午后、昨夜の約束で、大硯君から貰つた木綿の新らしい紋付を着て沢田君を訪ふた。話は左程はづまなかったが、三杯平らげた雑煮は美味かった。帰りに西堀君の店を訪ふ。
 
 

 
 
平手もて
吹雪にぬれし顔を拭く
友共産を主義とせりけり
 
共同の薬屋開き
儲けむといふ友なりき
詐欺せしといふ
 
 

 
 
明治41年1月4日
社会主義に関心をもつ
 
 寿亭で開かれた社会主義演説会の帰り道、
 
 帰路、区役所の桜庭保君と一緒だったが社の鯉江が後から追駆けて来て、
 (あの人は何と云ふ人ですか)
 (桜庭君と云って区役所に居る人です)
 (あゝ、さうですか。三面に画をかく桜庭と云ふ女の兄さんですな)
 (然うです。)
 
 うーん、啄木日記の中で、こういう小説の会話表現みたいな描写が出てくるの、この「明治41年1月14日」が初めてなのではないでしょうか。一日の文章がじわじわと長くなってきていたり、こういう今までやらなかったような描写を試みたり、やっぱり、啄木、かなり意識してんだな…
 
 
 1月5日、6日と続けて「沢田君」が登場しているので、ここで沢田信太郎(天峯)についてまとめておきます。最近の話題では、啄木が小樽日報社を辞めた時に、日報に『石川啄木兄と別る』という記事を書いたのが沢田天峯ですね。以下、啄木全集に載っている岩城之徳先生の「改題」から。
 
沢田信太郎(1882〜1954) 啄木の北海道時代の友人。秋田県の出身で早大に学んだ。啄木が北海道に渡ったころ函館商工会議所の主任書記をしており、かたわら天峯の筆名で苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)の雑誌『紅苜蓿』(べにまごやし)に創作や評論を書いていた。函館移住直後、啄木はこの沢田の紹介で、臨時雇として函館商工会議所に勤務している。この年八月、沢田は函館の大火を機会に札幌に移り、北海道庁に就職して役人生活を始めたが、啄木の懇請で『小樽日報』の編集長になった。小樽退去後上京して『国民新聞』の記者となり、同社経済部長として活躍した。その後、迎えられて京城の朝鮮銀行に入り、大正十二年帰国後は東洋生命の支配人となり、帝国生命に合併後も同社に勤務した。晩年は愛国生命顧問の地位にあった。
 
 1月4日の日記に出てくる「区役所の桜庭保君」の妹「桜庭ちか子」については、後日、10日頃の日記のあたりででも…
 
次回は「1月7日」
 

 
啄木転々
「五月から始まる啄木カレンダー」改題
短歌篇 日記篇
 
絵葉書 / 付:2003.5〜2004.4カレンダー
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