石川啄木兄と別る
 
沢田 天峯
 
 
 
 
 文壇に於ける啄木兄の文名は余夙(つと)に之を記せり。其の肇めて親炙せるは函館に於ける苜蓿社同人の会合の席なりとす。爾来兄は北門社に往き更に日報社に転ずるに及で、余は蓬々として兄の跡を趁(お)ひ、同じく社中に事を共にするに至る、蓋し又一箇の奇縁の繋がるものなしとせず。而して僅に三旬に充たざるの今日に、蚤(はや)くも袂を別つの余儀なきに至る、之を天命と云はんは余りに無造作すぎたるにあらずや。兄の齢少又壮、常に気を負ふて、塵外に超然たるは、斉(ひと)しく同人の推服する所に属す。余は実に兄の庸俗(ようぞく)に解嘲を意とせざるの量に敬す。兄の余に求むる所のもの或は絶無なるべし、而かも余の兄に求めんと欲する所のものに至ては、決して鮮少にあらざるなり。天下真に不遇の天才あるべし、自重して益々文運に資する所あれよ。敢て啄木兄の為めに贅す、点頭善と称するに未し乎。
 
 
(小樽日報 明治四十年十二月二十二日・第五十三号)

 

  底本:石川啄木全集 第8巻
    筑摩書房
    1979(昭和54)年1月30日初版
 

  入力:新谷保人
  2003年12月23日公開
  2005年12月12日改訂