東十六条   『明治四十年・啄木的北海道』より抜粋
 
新谷 保人
 
 
1.雨情の『札幌時代の石川啄木』
 
 野口雨情の『札幌時代の石川啄木』が、最近、青空文庫にアップされました。全文は長すぎてご紹介しきれません。ぜひ直接青空文庫に行って読んでください。多くの啄木ファンにとって、この「札幌」は今までの定説を覆すような愕然たる内容です。ここでは私が驚いた部分のみの引用になります。
 
 
 札幌へ来た頃の啄木
 ある朝、夜が明けて間もない頃と思ふ。
『お客さんだ、お客さんだ』と女中が私を揺り起す。
『知つてる人かい、きたない着物を着てる坊さんだよ』と名刺を枕元へ置いていつてしまつた。見ると古ぼけた名刺の紙へ毛筆で石川啄木と書いてある、啄木とは東京にゐるうち会つたことはないが、与謝野氏の明星で知つてゐる。顔を洗つて会はうと急いで夜具をたたんでゐると啄木は赤く日に焼けたカンカン帽を手に持つて洗ひ晒しの浴衣(ゆかた)に色のさめかかつたよれよれの絹の黒つぽい夏羽織を着てはいつて来た。時は十月に近い九月の末だから、内地でも朝夕は涼し過ぎて浴衣や夏羽織では見すぼらしくて仕方がない、殊に札幌となると内地よりも寒さが早く来る、頭の刈方は普通と違つて一分の丸刈である、女中がどこかの寺の坊さんと思つたのも無理はない。
『私は石川啄木です』と挨拶をする。
『さうですか』
 私は大急ぎに顔を洗つて、戻つて来ると、
『煙草を頂戴しました』と言つて私の巻煙草を甘(うま)さうに吹かしてゐる。
『実は昨日の夕方から煙草がなくて困りました』
『煙草を売つてませんか』
『いや売つてはゐますが、買ふ金が無くて買はれなかつたんです』と、大きな声で笑つた。かうした場合に啄木は何時も大きな声で笑ふのだ、この笑ふのも啄木の特徴の一つであつたらう。
 そのうちに女中が朝食を持つて来た。
『朝の御飯はまだでせう』
『はア、まだです』
 女中に頼むと直ぐ御飯を持つて来た。御飯を食べながら、いろいろと二人で話した。札幌には自分の知人は一人もない、函館に今までゐたのも岩崎郁雨の好意であつたが、岩崎も一年志願兵で旭川へ入営したし、右も左も好意を持つてくれる人はない全くの孤立である、自分はお母さんと、妻君の節子さんと、赤ん坊の京子さんと三人あるが、生活の助けにはならない。幸ひ新聞で君が札幌にゐると知つたから、君の新聞へでも校正で良いから斡旋して貰はうと札幌までの汽車賃を無理矢理工面して来たのである。何んとかなるまいかと言ふ身の振り方の相談であつたが、私の新聞社にも席がないし、北門新聞社に校正係が欲しいと聞いたから、幸ひに君と同県人の佐々木鉄窓氏と小国露堂氏がゐる、私が紹介をするから、この二人に頼むのが一番近道であることを話した。啄木もよろこんで十時頃連れ立つて下宿屋を出た。
 これが啄木と始めて会つたときの印象である。
 
 
 えっ…
 
 もし、これが本当なら、啄木は何の勝算もなく着の身着のままで札幌の野口雨情を頼っていったことになる。しかも朝イチで。ご飯までねだって。(みっともないなぁ…)
 
 行き当たりばったりで、昔の『明星』同人の名を頼ったり語ったりするのは啄木の得意技だというのは知っていますけれど、私は、明治40年9月の「札幌行」はちがうと思っていました。道庁に勤務する友人の向井永太郎の世話で北門新報社の校正係の職を得、単身札幌に行ったのではなかったか…
 だからこそ、9月14日午後1時札幌駅に到着して、向井と松岡蕗堂に迎えられて、その下宿先である北7条西4丁目の未亡人田中サト方にすんなり落ち着いたのではないのか… そして、16日には北門新報社に初出社したのではないのか…
 
 わけがわからなくなってくる。
 
 しかし、衝撃の回想はまだ続く。
 
 
 北門新聞の校正
 啄木は佐々木氏か小国氏か二人を訪ねて北門新聞社へ行つた。私は途中で別れて自分のゐる新聞社へ行つた。その夕方電話で北門の校正にはいることが出来て社内の小使ひ部屋の三畳に寄寓すると報(し)らせて来た、月給は九円だが大(おほい)に助かつたとよろこんだ電話だ。
 それから三日程経つと小国氏から、啄木の家族三人が突然札幌へ来て小使部屋に同居してゐるが、新聞社だから女や子供がゐては狭くて困る、東十六条に家を借りて夕方越すから今夜自分も行くが一緒に来て呉れと言ふ電話があつた。私は承知して待つてゐた。その頃東十六条と言へば札幌農学校から十丁程も東の籔の中で人家なぞのあるべき所と思はれない。そのうちに小国氏は五合位はいつた酒瓶を下げてやつて来た、私は啄木の越し祝ひの心で豚肉を三十銭ばかり買つて持つて行つた。日は暮れてゐる、薄寒い風も吹いてゐた。小国氏は歩きながら、
『君の紹介で彼(啄木のこと)を社長に周旋したが、函館から三人も後を追つて家族が来るとは判らなかつた、社長からは女や子供は連れて行けと叱られるし、僕も困つて彼に話すと彼も行くところが無いと言ふし、やつと一月八十銭の割で荷馬車曳きの納屋を借りた、彼は諦めてゐるからいいやうなものの、三人の家族達は可哀想なもんだな』と南部弁で語つた。
 籔の中の細い道をあつちへ曲りこつちへ曲り小国氏の案内で漸く啄木の所へ着いた。行つて見ると納屋でなく廐(うまや)である。馬がゐないので厩の屋根裏へ板をならべた藁置き場であつた。
 隣りが荷馬車曳の家(うち)でこの広い野ツ原の籔の中には他に家はない、啄木は私達を待つて表へ出て道ツ端に立つてゐた、腰の曲つたお母さんも赤ん坊の京子ちやんを抱いた妻君の節子さんも一緒に立つてゐた。廐の屋根裏には野梯子が掛つてゐる、薄暗い中を啄木は、『危険(あぶな)いから、危険いから』と言ひながら先に立つて梯子を上つてゆく、皆んな後から続いて上つた。屋根裏には小さい手ランプが一つ点(つ)いてゐるが、誰の顔も薄暗くてはつきり見えなかつた。
 これが札幌で二度目に啄木に会つた印象である。
 
 
 「東十六条」?
 
 札幌は、南北に「条」を敷き東西に「丁目」を数えますから、もちろん「東十六条」という区画はありません。「札幌農学校から十丁程も」という雨情の書き方から、たぶん「北16条」のことだと想像しますが確証はありません。(「東16丁目」だとしても、同じくらい「野ッ原の藪の中」ではあります。)
 
 この描写は、下宿先「北7条西4丁目の未亡人田中サト方」の様子とはあまりにもかけ離れています。いくら明治40年とはいえ、「北7条西4丁目」は札幌駅の裏側にあたる街中(まちなか)です。「野ッ原の藪の中」なんかではない。でも、「厩の屋根裏」と雨情は言う… 「腰の曲つたお母さんも赤ん坊の京子ちやんを抱いた妻君の節子さんも一緒に立つてゐた」とは!これは一体全体何事なんでしょう? こんな、啄木の「札幌」話、私は聞いたことがない…
 
 わけがわからない。
 
 野口雨情がなにかを勘違いしている…ということはありえると思います。「宮崎郁雨」を「岩崎郁雨」と書き間違ったり…(これは「岩崎白鯨」との混同)、「ふるさとの山に向ひて」の歌を北海道時代の歌と言ったり(「岩手山」にきまってる!)、雨情の文章は初歩的なミスがあまりにも多い。誰か別の人と勘違いしているということは充分あり得るとは思います。
 でも、しかし… 北門新報社を体よく厄介払いされた下りなんかを読んでいると、とても雨情の作り話とは思えないのも事実です。なぜ啄木は、あんなにもバタバタと二週間で札幌を切り上げて、小樽日報社に鞍替えしていったのか?この基本的な疑問について、「函館」から「小樽」までの間にこの雨情の「札幌」1ピースが挟まると、とても物事の流れがすっきりと氷解するような気がしてならないのです。
 
 啄木が函館の地を踏んだ「5月5日」から今日までずーっと啄木日記につきあってきたわけですが、こんな種類のショックは初めてです。
 
 
 まあ、冷静に考えてみると、このような啄木像の方が正しいかな…という想いも少しあります。当時の小樽・札幌は、小樽日報記者・啄木が「貸家の昨今」に書いてある通り、
 
殊に函館の大火以来は何百戸といふ焼出され其が一時に溢れ込み当座は殆んど区内に一軒の空家もなく、従って家賃の騰貴著るしかりし (「貸家の昨今」小樽日報 明治40年11月7日・第15号)
 
といった状態です。函館大火直後、啄木のように職場を失ったり、あるいは家を焼かれたりで、一時的にもせよ函館を離れた人々の数は3千人を超えました。当時人口15万ほどの小樽・札幌に、そんな人たちがどっと流れ込んだのです。いくら道庁役人の向井永太郎の世話だろうと、この時期、そうすんなりと北門新報社の職を得、札幌に入ることができるものでしょうか。
 
 
 
2.北七条西四丁目 田中サト方
 
 寅吉なんか、どうでもいい!という感じです。問題は今日の雨…ではなかった、昨日の雨情。
昨日(12月11日付「今日の啄木」)の、野口雨情の一文がまだ心にひっかかっています。
 
今朝少し寝坊して、顔を洗ふや否や食堂に駆け込むと、「石川さんお手紙がまゐって居ます」といって、親切な宿の主婦さんが一封の郵書を渡してくれた。見れば君からである。………
(明治40年9月23日札幌より 宮崎大四郎宛書簡)
 
 うーん、ちゃんと、「北7条西4丁目」の田中サト未亡人宅に下宿しているではないか… 雨情は何言ってんだろう? この23日以降、小樽に現れる10月1日までの一週間の間に、雨情が言う「東16条」の急展開があったのだろうか?
 
 
 まだ、「東十六条」問題を考えています。
 
 
札幌市街明細案内図 (蒼龍館発行)
 
 
 この図版は、札幌市教育委員会編集、北海道新聞社発行になる「さっぽろ文庫」シリーズの別冊、『札幌歴史写真集・明治編』に収録されている「札幌市街明細案内図」(蒼龍館発行)です。明治39年の札幌。啄木がやってくる一年前の札幌の街です。
 
 
天下の代用教員一躍して札幌北門新報の校正係に栄転し、年俸百八十円を賜はる、
明十三日午后七時、君が立つた時と同じプラツトフオームから汽車にのる。
                            四十年九月十二日
                             函館 キツツキ
宮崎大四郎様
(明治40.9.12宮崎大四郎宛書簡)
 
 というわけで、函館を発って札幌に着いたのが明治40年9月13日。以来、9月27日に小樽へ向かうまでの札幌滞在時代の約2週間、啄木が住んでいたとされる下宿先「北7条西4丁目の未亡人田中サト方」。地図では、大通りを起点として北に7丁上がったところが「北7条」、創成(そうせい)川を起点として西に4丁ほど行ったところが「西4丁目」。つまり、「北7条西4丁目」は札幌駅の裏手にあたる区画です。当然、街中。何回地図を見直したって、野口雨情が言っているような「藪の中の細い道をあつちへ曲りこつちへ曲り」するような場所では絶対にないのです。
 
 
夜小国君の宿にて野口雨情君と初めて逢へり。温厚にして丁寧、色青くして髯黒く、見るから内気なる人なり。共に大に鮪のサシミをつついて飲む。嘗て小国君より話ありたる小樽日報杜に転ずるの件確定。月二十円にて遊軍たることと成れり。函館を去りて僅かに一旬、予は又滋に札幌を去らむとす。凡ては自然の力なり。小樽日報は北海事業家中の麟麟児山県勇三郎氏が新たに起すものにして、初号は十月十五日発行すべく、来る一日に編輯会議を開くべしと。野口君も共にゆくべく、小国も数日の後北門を辞して来り合する約なり。 (石川啄木「明治四十丁未歳日誌」より「9月23日」)
 
 
 啄木よ、君が野口雨情に会ったのは、この9月23日が初めてのことなのか?
 
 たぶん、野口雨情がなにかを勘違いして大ボケをかましている…か、あるいは、逆に、啄木が意図的に「日記」を操作している…ということだと思います。操作しているという言い方がおかしかったら、こう言い換えても良い――「啄木日記」は、ある種のフィクション作品なのだと。自分が読むだけでは終らない。後世の私たちが「啄木日記」を読むであろうことを充分に意識して、これは書かれている小説の始まりなのだ、と。
 
 
 
 
野口雨情      小国露堂
 
 
 
3.雨情『札幌時代の石川啄木』に現れた啄木像とその考察
 
 啄木の「明治四十年丁未歳日誌」の文章は本当に美しい。私は、今年、この「四十年日記」を基にして「五月から始まる啄木カレンダー」という絵葉書を作ったのですが、毎月毎日の啄木の言葉を書き写していて飽きることがありませんでした。明治の二十二歳の青春に正直しびれました。
 でも、来年、これと同じ五月から始まるカレンダーをやってくれ…と言われても、もうたぶんできないでしょう。心は、もう二度とこの同じ場所にとどまってはいられないから。小樽の日々は早く過ぎる。
 ふたたび、私の、スレも立たないマイナー地名in札幌、「東十六条」へ。
 
 
@ 札幌へ出て来たいきさつ
 
時は十月に近い九月の末
札幌には自分(啄木)の知人は一人もない
函館に今までゐたのも岩崎郁雨の好意であつたが、岩崎も一年志願兵で旭川へ入営した
全くの孤立である
幸ひ新聞で君(野口雨情)が札幌にゐると知つたから
君の新聞へでも校正で良いから斡旋して貰はうと札幌までの汽車賃を無理矢理工面して来た
何んとかなるまいか
 
 もしも野口雨情の証言が正しいとした場合、啄木は何の勝算もないまま函館を出たことになります。函館では、周囲の友人たちに、北海道庁に勤務する向井永太郎の世話で北門新報社校正係の職を得たと言っていますが、それは啄木の格好付けのでまかせであったか、あるいは、単に啄木の勝手な思いこみ(向井永太郎がなんとかしてくれるだろう…みたいな)だった可能性があります。
 日記にある、9月14日午後1時札幌駅に到着した啄木を向井と松岡蕗堂が迎えに来て、「北7条西4丁目田中サト方」の松岡の下宿部屋に同居させてもらった…という記述も、単に当座函館時代の友人の下宿に転がり込んだということなのであって、そのことと、16日の「北門新報社への初出社」とは結びつかないということにもなります。
 
 
A 北門新聞への斡旋
 
私(野口雨情)の新聞社にも席がない
北門新聞社に校正係が欲しいと聞いた
幸ひに君(啄木)と同県人の佐々木鉄窓氏と小国露堂氏がゐる
私が紹介をするから、この二人に頼むのが一番近道であることを話した。
啄木もよろこんで十時頃連れ立つて下宿屋を出た。
 
 啄木日記では「16日の初出社」。たしかに、その前日の9月15日には、昼に向井永太郎とともに小国露堂を訪ねているし、夜には小国とともに北門新報社社長の村上のところへ挨拶に行ったという記述もあります。ということは、別段、野口雨情の口添えを頼む必要はないではないか?
 たぶん、なかったのでしょう。北門云々は、雨情の下宿へ押しかける口実ではないかと思われます。煙草銭まで切らしているような素寒貧の状態から見て、朝飯か借金かをねだりに行ったのでしょう。
 あるいは、@で考えたように、向井永太郎ルートのコネが弱いか無かったがために、野口雨情ルートなどとの二股をかけていたのかもしれない…とも想像できますが、「時は十月に近い九月の末」という雨情の表現とは少しかけ離れています。やはり突発的な思いつきでしょう。だから、ちっとはカッコ悪い思いもあって、啄木の方は日記にこのことを書いていないのではないですか。
 
 
B 北門新聞の校正
 
啄木は佐々木氏か小国氏か二人を訪ねて北門新聞社へ行つた。
私(野口雨情)は途中で別れて自分のゐる新聞社へ行つた。
その夕方電話で北門の校正にはいることが出来て
社内の小使ひ部屋の三畳に寄寓すると報(し)らせて来た
月給は九円だが大いに助かつたとよろこんだ電話だ。
 
 啄木は何か生活に動きがあれば必ず宮崎郁雨など函館時代の友だちに手紙を出しているのですが、函館を出る直前の9月12日付ハガキを最後に、9月19日付の宮崎郁雨宛書簡までその消息は一時途絶えます。その後、19日からは、今度は一転、「19日」「20日」「21日」「23日」とたたみ込むように手紙が再開されて行きます。内容も、「19日」書簡で初めて北門社での仕事内容に具体的に言及。「20日」書簡でようやく具体的に小国露堂の人となりにも言及。また、あの有名な「北門に歌壇起したよ」の文句が見えるのもこの「20日」書簡です。
 
 翌「21日」の宮崎郁雨宛書簡では、
 
小生当地に入ってより、後に残りし一家は十六日に焼跡をひき上げて小樽なる姉の許に落ちつき居候ひしが、今朝せつ子一人一寸参り、四五日中に来札の事にきめて只今六時四十分の汽車にて帰りゆき候、 (傍点は新谷)
 
などいった意味深な箇所も見受けられますし、また、「21日」の啄木日記には、
 
八時四十分せつ子来る、京子の愛らしさ、モハヤ這ひ歩くやうになれり。この六畳の室を当分借りる事にし、三四日中に道具など持ちて再び来る事とし、夕六時四十分小樽にかへりゆけり。(傍点は新谷)
 
といった、ほとんどそのものズバリではないかと思える記述もあります。
 
 雨情の書いている「東十六条」の家の話を小国露堂が切り出してくるのは、たぶん「19日」からこの「21日」」にかけてのあたりではないでしょうか?
 
 だからこそ、「23日」付の並木武雄宛書簡の、
 
 一昨日はよき日なりけり。
 小樽より我が妻せつ子
 朝に来て、夕べ帰りぬ。
 札幌に貸家なけれど、
 親切な宿の主婦(かみ)さん、
 同室の一少年と
 猫の糞他室へ移し
 この室を我らのために
 貸すべしと申出でたり。
 
と書かれた「この室」が、もしかしたらこれが「東十六条」なのかもしれません。
 
 「21日」(か、あるいは、それ以前)に、啄木は、函館を出てもう小樽まで来ていた家族を北門新報社の小使ひ部屋に呼び寄せるつもりでいた。だがしかし、会社に家族ごと寄生するなんていう、つげ義春「李さん一家」みたいな非常識が世間で通用するはずもなく、会社から、啄木が計画しているようなことは絶対にまかりならんとのお達しが来る。(村上祐の怒った顔が目に見えるようです…)
 見かねた小国露堂が、なにか未亡人田中サトさんにでも相談して、たまたまサトさんの実家が札幌郊外の琴似村かなんかにあったとか…厩で暮らしていた「一少年と猫の糞」を急きょ追い出したりして♪
ようやくのこと啄木の札幌での新居が決まりましたとか、そんなことではなかったのかなと想像しますが。
 
 ちなみに、北門新報社の小使ひ部屋は「三畳」です。「21日」日記の段階で、啄木は明確に「この六畳」と言っていますから、9月21日に妻・節子が下見しに来たのは、北門の小使ひ部屋ではなくて、ずばり「東十六条」の方でしょう。
 
 それよしと裁可したれば、
 明後日妻は京子と
 鍋、蒲団、鉄瓶、茶盆、
 携へて再び来り、
 六畳のこの一室
 新家庭作り上ぐべし。
 願くは心休めよ。     (傍点は新谷)
 
 
C 「東十六条」へ
 
それから三日程経つと小国氏から、
啄木の家族三人が突然札幌へ来て小使部屋に同居してゐる
新聞社だから女や子供がゐては困る
東十六条に家を借りて夕方越すから今夜自分(露堂)も行くが一緒に来て呉れ
私(野口雨情)は承知して待つてゐた。
その頃東十六条と言へば札幌農学校から十丁程も東の籔の中で
人家なぞのあるべき所と思はれない。
そのうちに小国氏は五合位はいつた酒瓶を下げてやつて来た、
私は啄木の越し祝ひの心で豚肉を三十銭ばかり買つて持つて行つた。
(小国氏は歩きながら)
『君の紹介で彼(啄木のこと)を社長に周旋したが…
 
 9月16日に初出社してまもなく、啄木は、北門新報社の「小使ひ部屋の三畳に寄寓する」という、うまいアイデアを得た。で、さっそく家族をその「小使ひ部屋」に呼び寄せたのではないでしょうか。そして、啄木自身は、「松岡君下宿」と「小使ひ部屋」を転々と往復? そうすれば宮崎郁雨たちの手紙は「北7条西4丁目田中サト方」で全部チェックすることができます。(そして、後世の私たちは、「北7条西4丁目」の住所は変わらないため、札幌時代の二週間啄木は「北7条西4丁目」に住んでいた…と誤解することになります。)
 
 雨情の文章で、「それから三日程経つと」小国露堂から啄木の家族三人が小使部屋に同居していて困る!という苦情を受けとる場面がありますね。啄木一家が北門新報社に居候を始めてから三日後くらいが「9月19日」、さらに小国露堂が家を探したりしてすったもんだした結果、ようやく「東十六条」の家へ移ることになったのが「23日」頃なのかなぁ…とか私は想像しましたけれど。
 
 雨情の証言が変な信憑性を持っているのは、ひとつには、文章の中で小国露堂の言葉を描いているところです。
 
『君の紹介で彼(啄木のこと)を社長に周旋したが、函館から三人も後を追つて家族が来るとは判らなかつた、社長からは女や子供は連れて行けと叱られるし、僕も困つて彼に話すと彼も行くところが無いと言ふし、やつと一月八十銭の割で荷馬車曳きの納屋を借りた、彼は諦めてゐるからいいやうなものの、三人の家族達は可哀想なもんだな』
 
 こういう言葉は、なかなか創作でできることではないのではないでしょうか。
 
 
D 「東十六条」の啄木一家
 
籔の中の細い道をあつちへ曲りこつちへ曲り小国氏の案内で漸く啄木の所へ着いた。
行つて見ると納屋でなく廐(うまや)である。
馬がゐないので厩の屋根裏へ板をならべた藁置き場であつた。
隣りが荷馬車曳の家でこの広い野ツ原の籔の中には他に家はない
啄木は私達を待つて表へ出て道ツ端に立つてゐた
腰の曲つたお母さんも赤ん坊の京子ちやんを抱いた妻君の節子さんも一緒に立つてゐた。
廐の屋根裏には野梯子が掛つてゐる
薄暗い中を啄木は、『危険いから、危険いから』と言ひながら先に立つて梯子を上つてゆく
屋根裏には小さい手ランプが一つ点いてゐるが、誰の顔も薄暗くてはつきり見えなかつた。
 
 そして、雨情の文章のふたつめの変な信憑性とは、ここには、啄木の「三人の家族達」への言及があることなのです。啄木ひとりだけの話ならば、なにかしら雨情は啄木と誰か他の男を勘違いしているのだろう…ということもありえるでしょう。でも、啄木と一緒に「腰の曲つたお母さんも赤ん坊の京子ちやんを抱いた妻君の節子さんも一緒に立つてゐた」という一行が入ると、この「啄木」を誰か他の男と間違えて記憶するバカなんていないと思うのです。(ましてや雨情は新聞記者でもあるのだから!)
 
 啄木の「9月23日」日記に、きわめて興味深い記述があります。
 
夜小国君の宿にて野口雨情君と初めて逢へり。温厚にして丁寧、色青くして髯黒く、見るから内気なる人なり。共に大に鮪のサシミをつついて飲む。嘗て小国君より話ありたる小樽日報杜に転ずるの件確定。月二十円にて遊軍たることと成れり。函館を去りて僅かに一旬、予は又滋に札幌を去らむとす。凡ては自然の力なり。小樽日報は北海事業家中の麟麟児山県勇三郎氏が新たに起すものにして、初号は十月十五日発行すべく、来る一日に編輯会議を開くべしと。野口君も共にゆくべく、小国も数日の後北門を辞して来り合する約なり。 (石川啄木「明治四十丁未歳日誌」より「9月23日」)
 
 
 「小国君の宿」とは、いったい何?
 
 もしも「野口雨情君と初めて逢へり」ということが啄木のすっとぼけた大ウソなのだとしたら、こちらの「小国君の宿」というのも、たぶん同じくらい大ウソでしょう。私には、これが「東十六条」に思えます。
 
 
 
北7条西4丁目
 
 
 
4.「東十六条」問題、まとめ
 
 札幌駅北口を出たところ、道路の向かい側の区画が「北7条」です。「4丁目」は、駅を出て左側に一区画行ったところ。現在は「クレスト・ビル」という建物になっています。そこの1階通路に啄木の胸像とともに案内板も置いてあります。(昔、ここは小さな郵便局だったような思い出が… でも、啄木住居跡の案内板があるだけで、こういう胸像はなかったと記憶するのですが… なにもかも三十五年前の高校生が見た幻ゆえ定かではありません)
 
 
葛西茂雄作・啄木胸像
 
 
 しかし、この啄木像、凄いですね。(レーニンかと思った…) あまりに私たちは本郷新の銅像で洗脳されているもんで、なかなかに戸惑います。
 
 啄木が「小国君の宿」とすっとぼけている「東十六条」の家。(実質、厩!) 小国露堂と野口雨情が訪ねていった「9月23日」以後、啄木や家族はどうなったのでしょうか?
 
 まあ、考えるまでもないと思います。厩の屋根裏(藁置き場)へ梯子階段を登って…なんて、「腰の曲がった」啄木の祖母や娘の京ちゃんが生活できるとはとても思えない。(そんなこと思いつくの、啄木だけだよ…) ランプ一個の下で家族4人が佇んでいる…なんて図、考えただけでも身の毛がよだつ。家族は、たぶんほうほうの体で小樽へ逃げ帰ったと思いますよ。九月末近い札幌で一晩でもそんなところで家族が頑張ったとしたら、オウム真理教クラスの荒行でしょうから。
 
君を迎えて豚汁つつかむとせしこの札幌を二三日中に見捨てねばならぬ事出来申候、何だか遺憾千万に候へど、一種の遊牧の民たる小生には致方なく候、小生は、この度山県勇三郎氏によつて新たに起さるべき小樽日々新聞社に入る事に昨夜確定仕候、
(明治40年9月25日/宮崎大四郎宛書簡)
 
 啄木も札幌生活に諦めがついたのではないか。この日以降、日記、書簡とも、「小樽」「小樽」…の連発になって行きます。(「小樽日々新聞社」という言い間違い、なんとなくもの悲しいです。ずいぶん函館からは遠いところに来てしまいました…) かくして27日、啄木は、かなしき小樽へ。
 
 
 
 
『明治四十年・啄木的北海道』について
 
 この文章「東十六条」は、もともとは、新谷の主宰するスワン社ホームページ「おたるの図書館」 (http://www.swan2001.jp/)に、一年間連載していました「今日の啄木」という記事がベースになっています。(2003年5月〜2004年4月) 昨年、それらの記事をまとめ、『明治四十年・啄木的北海道』の題名でスワン社より出版を予定していましたが、その後、新谷の仕事が多忙になったため、印刷〜製本が中断したまま現在に至ってしまっています。今回は、その『明治四十年・啄木的北海道』原稿の中から、「第4章 東十六条」部分を掲載させていただきました。 (新谷、記)