小樽啄木会だより No.6
(2004年5月15日発行)
 
 
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石川啄木と大逆事件
 
後藤 捨助
 
 
その1
 
 1.石川啄木との出会い
 
 小樽に生まれ育った私は、同じく小樽でその漂泊の旅を、一時的にも過ごした石川啄木を想わずにはいられない。花園町にある当時の啄木の居住の跡は、私も料理屋「た志満」の二階の間として時々利用している。先日も親戚の法事に当たってお邪魔したのである。「ああ、ここに啄木はいて、『小樽日報』に通っていたのだな」と思うと、一種の感慨にふけること、しばしとなるのであった。実は私は学生の頃に、つまり北海道学芸大学(現北海道教育大学)札幌分校の中学校課程国語科の学生として、初めての「近代文学演習」に、啄木の『詩集』を取り上げ、論じたのであった。啄木の浪漫主義の明星派から出発して、しだいに現実の生活苦を体験し、自然主義にもあきたらず、その徹底した批判をおこなったうえに、明治政府の権力の実態に肉薄して、ついに社会主義者を自認するという、思想的過程を、私はおぼろげながらつかんだが、その当時は若干26歳の青年としてここまで到達した、その早熟さに舌をまいた記憶の程度を出なかった。
 
 その後も教職につきながら、啄木の短歌を中学校の生徒に教えるために、その教材研究のなかで、啄木に関する理解を深めていった。そうして現在において、教職を辞してあらためて、この天才文学者に注目すると、次の評論家平野謙の言葉に思いを深くするのである。
 
「私のひそかに考えるところによれば、本巻はこの『啄木全集』のなかでも最も重要な一巻であるばかりでなく、近代日本の精神史上最も注目すべき歴史的文献の一たるをうしなわない、と信ずる。晩年の啄木が刻苦して辿りついた思想史上の道ゆきはこの一巻に集約され、その精密な歴史的位置付けはなお今後の課題として私どもにのこされてる。これまでといえども、有名な『時代閉塞の現状』を頂とする啄木の思想的輪郭は一応明らめられてはいた。しかし、それを裏づける『日本無政府主義者陰謀事件経過及び付帯現象』や、‘V’NAROD’SERIESなどは、本巻においてはじめて私どもの眼前に公けにされたのである。一介の詩人たる領域をこえて、ひとりの社会思想上の先駆者たる面目はここにはじめてその全貌をあかした。私どもは今後もくりかえしこの一巻にたちかえり、困苦にたえて到達したその苦闘の跡を、なんどか顧みねばならぬだろう。」
(1978年,筑摩書房・啄木全集第8巻「石川啄木と大逆事件」)
 
 私には、従来、平野謙は辛口で、時にはやや斜めにものを見る傾向がある評論家と思われていた。しかし、この文章だけは、実に真摯に誠実に映った。大逆事件と石川啄木のかわりを述べた平野の文章が、これなのである。石川啄木の晩年を知る者は、その枯れ木のようにやせ細った腕で、日々結核の発作に悩みながら、貧苦のなかで書き綴った大逆事件の調査・究明した原稿を想像できるのである。これが、平野のいう「一介の詩人たる領域をこえて、ひとりの社会思想上の先駆者たる面目」として提出された類まれな記録なのである。
 
 では、その内容は具体的にはどういうものか。それを見る前にもう少し、平野の文章につき合ってみよう。平野は続けて書いている。
 
「それだげに本巻の投げかけている教訓をくまなく汲みほすことなど、よく私のなしうるところでない。遺憾ながら、私は本巻の解説者たる資格をもつものではない。庸劣私のごときは到底この歴史的な一巻の解説者たる光栄をになうにたりない。わが脚ばよろめき、わが手はふるう。そのかみ中野重治は啄木を評するに『俊敏にして純正』なる書をもってした。その俊敏にして純正な革命詩人の真面目をつたえる本巻を改題すべく、あまりにわが性は魯鈍であり、世俗の塵にまみれている。」
 
 この謙虚にして、痛切な心情を吐露した「わが身を解説者にはふさわしくない」とする平野の言葉は、私の胸を打つのである。時に、ごう慢とさえ思われた評論家の面影はないのである。啄木の晩年の壮絶な文学者としての死を賭して闘った思想的形成には、評論家平野謙は完全に脱帽したのであった。
 
 
幸徳秋水と菅野スガ
 
 
 2.大逆事件と文学者たち
 
 さて、啄木25歳のときに勃発した大逆事件は、明治43年(1910年)6月のことであった。しかし、これは私の考えるところでは、時の明治政府の国家的一大汚点でなくて、何であろうかと思う。まさに理不尽きわまりない国家的犯罪であった。
 
 事件のあらましは、次のようであった。
 
「この事件は、「幸徳事件」とも呼ばれるが、明治43年(1910年)6月、信州明科にいた機械工の宮下太吉が爆弾を製造し、管野スガ、新村忠雄、吉河力作などが、天皇暗殺を相談したということで、天皇制政府はこれを社会主義運動の弾圧のために、徹底的に利用した。5月25日に宮下が逮捕されるや、これをきっかけに桂軍閥内閣は、フレームアップによって、社会主義者を一網打尽にしようとした。結局、26名が被告とされ、24名が明治憲法下の刑法第72条の「天皇、太皇太后、皇后、皇太子、又ハ皇太子孫ニ対シ危害ヲ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」という「大逆罪」によって、死刑、2名が18年と11年の懲役となった。ところが判決の翌日、12名が天皇の名による「特赦」で無期懲役に減刑。明治44年(1911年)1月24日、幸徳秋水以下11名が死刑。翌25日、管野スガが死刑となったのであった」
(碓田のぼる著「石川啄木と『大逆事件』」新日本出版社,1990年より)
 
 今日になって考えてみると、権力機関による全くのデッチ上げ事件であり、社会主義者を根こそぎ日本から追放しようとする狙いが、暗黒裁判とともに実行された権力犯罪であった。したがって、今日では無実の罪によって死刑になった人々が多くその全容がは明らかになってきているのである。わが石川啄木はこの大逆事件に当たって、当時の文学者の受けた衝撃のなかでも、もっとも強く反応した文学者であった。よく知られるように、永井荷風、森鴎外、徳富蘆花、石川啄木、その他、若い文学者も年配の文学者も、それぞれの立場において強い衝撃を受けたのである。しかし、啄木のそれはもっとも強烈であり、よく本質をついたものであった。この辺の事情は、平野の先の文章に次のように書かれている。
 
「いやしくも明治末年の文学者だったら、大逆事件に『稲光をあびたような』衝撃を受けかなかったものはそんなにあるまい、と私は推定したいのである。その程度には文学者というものを私も信用したいのである。しかし、うけとめたその衝撃を作品にまで表明したとはかぎらない。むしろ、なんらかのかたちで制作にまで大逆事件の衝撃を造形化した人の方が異例だったにちがいない。……当時私の思いあたる範囲では、森鴎外と永井荷風と石川啄木とにもっとも精確な文学的反映を眺め得ると思えた。無論、その他にも『逆徒』を書いた平出修、『和泉屋染物店』を書いた木下杢太郎、『愚者の死』を書いた佐藤春夫、『危険人物』を書いた正宗白鳥らが思いうかんだが、やはり大逆事件に関する文学者の態度決定としては、鴎外・荷風・啄木の三人によって代表させていいように思った。『沈黙の塔』『食堂』を書き、『かのやうに』一連の五条秀麿ものを書き、『大塩平八郎』を書かねばならなかった森鴎外、『散柳窓夕栄』を書き、後年『花火』を書いた永井荷風。『時代閉塞の現状』を書き、『墓碑銘』を書き、『はてしなき議論の後』を書いた石川啄木。この三人はそれぞれ支配者の立場、知識人の立場、人民の立場から大逆事件とまともに組み、その資質・教養・社会的環境に応じて文学的に造形している。大逆事件をめぐる文学上の三角形として、それは今日もなお教訓的である。」
 
 私は、この平野謙の大逆事件に対する当時の文学者の態度について、その分類の仕方を興味深く思う。そして啄木を、「人民の立場」からという明確な視点で分類している点を評論家の眼力の確かさと見るのである。啄木の文学的・思想的発展の到達点は、三人の文学者のなかで、もっとも高い立場に、すなわち人民の人間としての尊厳と幸福への道につながるものとして認めた点である。これは、最初に、平野が「私のひそかに考えるところによれば、本巻はこの『啄木全集』のなかでも最も重要な一巻である…」と断言した意図が分かろうというものである。石川啄木の志の高貴さは、評論家としての平野の心を深く打ち、その改題をする自己をその任に耐えることができない、と告白させたのであった。
 
 
高知県中村市の秋水碑
 
 
 
その2
 
 1.啄木の人間的、思想的特徴
 
 優れた歌人であり、石川啄木の研究家でもある碓田のぼるは、その著「石川啄木と『大逆事件』」(1990年,新日本出版社)の中で、「啄木の思想的発展は、一路平坦な道ではなかった」「ジグザグで、しかもあざやかな軌跡をえがいていく螺旋状的な上昇発展こそ、啄木がもつ、きわめて人間的な特徴であり、誠実の証であった」と述べている。また、哲学者・高田求は、その著「人間の未来への哲学」(1980年,青木書店)の中で、「彼(啄木一引用者)の短い生涯は、ある意味では『矛盾の化身』としての彷徨そのものであった。この青年は『才気』をも『虚栄心』をもたっぷりもちあわせていた。しかし彼は、じきに彼自身の矛盾をもてあそぶことを覚えるには、あまりにも自己に誠実であった」と述べている。
 
 私は、この二人の啄木観を肯定しつつ、啄木の人間的、思想的発展の特徴を考察したい。そして同時に、当時の知識人・文学者の中で、もっとも強く大逆事件に関心を示したのは、啄木が際立っていたことを言いたいのである。以下、その辺の事情を述べようと思う。
 
 石川啄木は、幼・少年時代から神童とうたわれ、天職として詩人・文学者を志し、詩・小説・短歌・評論を書き、それに多くの日記・手紙を残した。しかし、その価値は世に認めれれること少なく、書いた原稿料では生活の糧にはきわめて不十分で、常に不如意をかこった。そして、ついに貧窮の中で重い結核にかかり、薬代もままならず、26歳2か月という若さで死んだ。明治45年(1912年)4月13日、明治の最後の年であった。妻節子はその一年後、函館で彼のあと追った。啄木の法要は、友入・土岐哀果(善麿)の家の同情のもとに、盛大に行われた。会葬者200余人であったという。
 
 
函館・立待岬 啄木一族の墓
 
 
 私が思うに、啄木の才能をもってすれば、もっと裕福な生活を送れるはずではなかったか。両親や妻子を路頭に迷わせるような生活の困窮が、なぜ起こったのか。漱石・鴎外の生き方を考えるとき、この疑問にぶつかるのである。漱石・鴎外はその生活や家族の問題に実に慎重に対処した。そして文学でも、売れぬ小説はほとんど書かなかったし、原稿料だけの危ない橋は避けた。職業を確保しつつ、あるいは生活の安定を見通しつつ、文学活動に向かったのである。また、国家からあからさまに危険視される作品は書かなかった。その意味では国家に対する批判も微温的であったのである。したがって啄木も、浪漫派の叙情的な文学や自然主義の文学程度におさめておけば、適度に世に評価され、原稿もそれなりに順調に売れ、生活に事欠く始末は避けられたかも知れない。
 
 しかし、啄木はその道を通らなかった。その作品(小説)は、当時の一部の人間には評価されても、多数の人々の評価を得られなかったのである。例えば小説「鳥影」などは、今日傑作として注目されているのに、当時の出版社はついに原稿を返して寄こした。小説「鳥影」は『東京毎日新聞』に連載された原稿だったのだが、単行本の出版を承知しなかったのである。啄木は大いに落胆した。今日注目される作品も啄木の時代の人々は、その値打ちを認めなかった。そこに啄木の「悲劇性」が生まれたのである。
 
 しかし、啄木の思想は時代を越えていた。現在、啄木の文学・思想と数奇な生涯は広く深く研究されてきており、国際的評価も高まっている。日本・韓国・中国・ヨーロッパの国々の一部には啄木研究の支部が存在するのである。日本の第一線の啄木研究者・近藤典彦氏は最近、啄木の国際学会の会長に就任された。啄木は、明治43年(1910年)9月9日夜に39首の短歌を書いている。
 
その中の一首「地図の上に朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く」は、当時の日本帝国主義の植民地政策への鋭い批判である。これほど国際連帯の立場から歌いあげた作品は、明治の時期には絶無であったというべきであろう。ところで、なぜ啄木は、大逆事件の真相究明に徹底的に取り組んだのか。それは、自分を含めて庶民の幸福を妨げているものの実態一その本質を極めようとしたのである。現象に潜む本質を白日のもとに示そうとしたのである。啄木の詩人としての直感と正義感が、大逆事件との遭遇で力強く発揮された。すなわち、合理的で、不正を許さない男らしい啄木の理性と勇気がそれを実行に移したのであった。そしてそこには彼の思想的到達点があった。啄木の思想的発展は・明星派の浪漫主義に端を発し、当時流行の自然主義を「ごまかし・卑怯」として、批判・脱却して・国家権力の実態を見すえ、社会主義へ急速に接近していくのであった。その根底に流れるヒューマニズム・人間的誠実さが、階級的な思想として発展したといえよう。
 
 
秋水直筆の陳弁書
 
 
 2.啄木と国家権力の問題
 
 この大逆事件は「幸徳秋水事件」とも呼ばれ、明治の国家権力が最も野蛮な形で行使された、社会主義者に対する言論抑圧事件であった。首謀者と目された幸徳秋水は、獄中で自らの主義・主張を「陳弁書」に残したが、それは東京の暮れから正月にかけて、極寒の刑務所の中での、それこそ指先の冷たさに筆を三度取り落としながら、必死に社会主義(無政府主義)の正当性を述べたものである。私は以前読んだことがあるが、死を直前にしつつ、理路整然とした、説得力ある文章であった。暗黒裁判の結果、秋水は33歳の若さで、あっと言う間に処刑された。もう一度言えば、大逆事件は明治43年(1990年)6月に勃発したが、社会主義者26名のやつぎばやの検挙があって、大審院が刑法第73条「大逆罪」による特別裁判を開始したのは、12月10日。翌年1月18日には衝撃的な判決が出た。秋水以下24名の死刑という判決。(この直後、明治政府は12名を無期懲役に減刑し、天皇の「温情」を示す。以後社会主義は人々の恐怖の的になり、「冬の時代」を迎える)
 
 啄木は、その日と翌日の日記に、この強権と卑劣さと、それに対する歯ぎしる思いをつぎのように書きとどめている。「今日程予の頭の興奮していた日はなかった。そうして今日程興奮の後の疲労を感じた日はなかった。…「二人だけ生きる、生きる」「あとは皆死刑だ」「ああ、二十四人」そういう声が耳に入った。…予はそのまま何も考えなかった。ただすぐ家へ帰って寝たいと思った。それでも定刻に帰った。帰って話をしたら母の眼に涙があった。」
(前掲書「石川啄木と『大逆事件』」より)
 
 啄木はこの時、25歳。病死1年3か月前のことである。上記の日記中「母の眼に涙があった」とある。啄木の母も幸徳秋水らの死刑判決に、強い関心を示していたのである。啄木の日頃の生活態度の反映なのであろう。それにしても、啄木の社会主義者への同情と共感・理解はどうみるべきか。結論的に言えば、大逆事件は期せずして文学者・思想家としての啄木の文学・思想・世界観の総決算を迫ったのであった。上述の啄木の思想形成の根底には、明治41年(1908年)4月5日、北海道を流浪して後、固い決意のもとに文学的成功をめざして五度目の上京を果たし、背水の陣で創作に励みつつ、苦闘・挫折した現実があった。
 上京した啄木は、「菊地君」「病院の窓」「母」「二筋の血」など、三百枚以上の作品を書きながら一枚として金にならなかった。しかし、悪戦苦闘しながら、他方では旺盛に読書をしていた。ゴーリキー・ツルゲーネフ・蕪村句集・杜甫・陶淵明・白楽天・万葉集・古今集・源氏物語など。彼は読書によってその苦しい生活体験の中でも、理性の声を高めていったのである。その俊敏な資質と理性は曇ることがなく、焦って無政府主義・テロリズムの容認の立場を取らなかった。クロポトギンや幸徳秋水らの無政府主義の思想に共鳴しつつも、現実的にはその道を進むことはなかったのである。
 
 その背景には教師・新聞記者の職歴、日常の数種類の新聞購読と借用文献(平民新聞含む)の読破と筆写があったと考えられる。啄木は英語力は相当高かったので、外国の文学書や社会主義思想の書物も原文で読んだという。
 こうして不断の学習によって、世界と日本の情報を貧欲に吸収し、自らの文学的・思想的世界を深化・発展させていったのである。そして今日、啄木の熱望した「強権」の打破と「明日の考察一我々の時代に対する組織的考察」(啄木の評論「時代閉塞の現状」の主張)の二つは、基本的に実現したといえよう。しかし、啄木が先駆的に提出した課題一すべての庶民の幸福への道はなお遠いと言わなければならない。これは、啄木から贈られた、私たちへの今日的な重要課題とも認識したいものである。
 
 
(ごとう・すてすけ=日本民主主義文学会=小樽文学舎・啄木会会員)
 
 
明治40年当時の花園町
 
 
《第6号/事務局便り》

1)来年の啄木忌のご案内
平成17年5月14日(土) 午後1時半〜
会場 市立小樽文学館(小樽市色内1丁目)
講演と水天宮境内(小樽市相生町3−1)の朗詠

※今年参加の方にはハガキで案内いたします。

2)啄木会便り原稿募集
小樽啄木会だより第7号の原稿募集
内容は特に決めておりませんが、啄木に関連したものをお願いします。
例として 啄木の作品を読んでの感想/啄木ゆかりの地への旅から
     「啄木忌の集い」に参加して/文芸作品(詩、短歌、俳句など)
     その他啄木関連情報など
字数  1000字以内
    (特に長くなりそうな場合は事務局に予め相談してください。)
締め切り 2005年(平成17年)2月末まで
送り先  小樽啄木会事務局
     (047-0155) 小樽市望洋台2−32−14 水口方
     TEL.0134-52-2775 E-mail:tamizu@nifty.com