| 明治三十七、八年の日露戦争は苦戦しながらも幾つかの僥倖もあって勝利した。 米国の調停で南樺太を領有した。そのため本州から移住者は函館から小樽まで鉄道で来たり船便で来るなど、小樽を中継して多く集まった。また対岸のシベリアとの貿易も地の利を活かして盛んになった。 当時小樽は北海道の大都市でもあったわけである。明治三十七年春に市街地の大半を消失する大火があり、土地区画整理も進みこの年からは建築ブームが始まった。函館,札幌を経て小樽日報記者として来た啄木は小樽の印象を新聞や友人たちへの手紙に書いているが、「真に新開地的な、植民地的精神の男らしい町」であると表現している。 |
| 午前小樽日報社にゆき主筆岩泉江東に逢ふ。社は木の香あらたなる新築の大家屋にして、いと心地よし。一日に編輯会議を開くべしといへり。序を以て小樽新聞社に緑川君を訪ふて帰る。 |
| 社は新築の大家屋にて、万事整頓致居、編輯局の立派なる事本道中一番なる由に候、活字の如きも新らしきもの許り三十万本も有之、六号だけにて九千本と申候へば、資本の潤沢にして景気よき事御察し下され度候、 |