明治四十年の小樽
 
 明治三十七、八年の日露戦争は苦戦しながらも幾つかの僥倖もあって勝利した。
 米国の調停で南樺太を領有した。そのため本州から移住者は函館から小樽まで鉄道で来たり船便で来るなど、小樽を中継して多く集まった。また対岸のシベリアとの貿易も地の利を活かして盛んになった。
 当時小樽は北海道の大都市でもあったわけである。明治三十七年春に市街地の大半を消失する大火があり、土地区画整理も進みこの年からは建築ブームが始まった。函館,札幌を経て小樽日報記者として来た啄木は小樽の印象を新聞や友人たちへの手紙に書いているが、「真に新開地的な、植民地的精神の男らしい町」であると表現している。
 

 
啄木写真帖(十二) 中央通り
 
(明治40年頃/中央小樽駅/小樽市立総合博物館蔵)
 
 
 九月、予函館より札幌に入り、北門新報社に校正子たり。僅かに十日、同県の友小国露堂君の斡旋により、俚謡詩人野口雨情君と共に入りて日報の創業に参加する事となり、同月二十七日夕、秋風と共に小樽に入れり。
 十月一日第一回編輯会議を開く。
(小樽のかたみ/小樽日報と予)
 
                                 
(明治40年頃/浜町より中央停車場を望む/小樽市立総合博物館蔵)