明治四十年の小樽
 
 明治三十七、八年の日露戦争は苦戦しながらも幾つかの僥倖もあって勝利した。
 米国の調停で南樺太を領有した。そのため本州から移住者は函館から小樽まで鉄道で来たり船便で来るなど、小樽を中継して多く集まった。また対岸のシベリアとの貿易も地の利を活かして盛んになった。
 当時小樽は北海道の大都市でもあったわけである。明治三十七年春に市街地の大半を消失する大火があり、土地区画整理も進みこの年からは建築ブームが始まった。函館,札幌を経て小樽日報記者として来た啄木は小樽の印象を新聞や友人たちへの手紙に書いているが、「真に新開地的な、植民地的精神の男らしい町」であると表現している。
 

 
啄木写真帖(十一) 色内大通り
 
(明治40年頃/色内大通り/市立小樽図書館所蔵)
 
 小樽区色内町四十三番地に焼麩(やきふ)屋を営なめる好人物の近藤某(四五)といふあり。幾何観音様に願かけても既に四十の坂を越して居乍ら妻さと(三三)との間に子のなきを淋しがり、寝物語りの相談一決して彼是詮議の末、本年四月の初め頃にさとの実家なる越中の親戚より五歳と八歳の子供二人を連れ来り、行/\は戸籍も移して近藤家の跡相続にせんと蝶花(てふはな)の慈育(いつくしみ)ただならず。
(小樽日報 明治四十年十一月一日 第十号/貰子の虐待