明治四十年の小樽
 
 明治三十七、八年の日露戦争は苦戦しながらも幾つかの僥倖もあって勝利した。
 米国の調停で南樺太を領有した。そのため本州から移住者は函館から小樽まで鉄道で来たり船便で来るなど、小樽を中継して多く集まった。また対岸のシベリアとの貿易も地の利を活かして盛んになった。
 当時小樽は北海道の大都市でもあったわけである。明治三十七年春に市街地の大半を消失する大火があり、土地区画整理も進みこの年からは建築ブームが始まった。函館,札幌を経て小樽日報記者として来た啄木は小樽の印象を新聞や友人たちへの手紙に書いているが、「真に新開地的な、植民地的精神の男らしい町」であると表現している。
 

 
啄木写真帖(八) 色内小学校
 
(明治後期/小樽市総合博物館所蔵)
 
区役所にて調査したる来年度児童収容予定調(しらべ)によれば、来学年に於て千三百名の増員を見るべきなるが、右に対する設備としては色内校を改築し又潮見台校に増築中なれば充分収容の見込あり。且つ既に土地盛りに着手せる手宮高等小学校も来年度に於て竣工すべければ、新たに予算を起して校数を増す必要はなかるべしと信ず。
(小樽日報 明治四十年十月二十七日 第六号/小樽区長と教育)