| 明治三十七、八年の日露戦争は苦戦しながらも幾つかの僥倖もあって勝利した。 米国の調停で南樺太を領有した。そのため本州から移住者は函館から小樽まで鉄道で来たり船便で来るなど、小樽を中継して多く集まった。また対岸のシベリアとの貿易も地の利を活かして盛んになった。 当時小樽は北海道の大都市でもあったわけである。明治三十七年春に市街地の大半を消失する大火があり、土地区画整理も進みこの年からは建築ブームが始まった。函館,札幌を経て小樽日報記者として来た啄木は小樽の印象を新聞や友人たちへの手紙に書いているが、「真に新開地的な、植民地的精神の男らしい町」であると表現している。 |
| 朝起きて顔を洗つてると、頼んで置いた車夫が橇を曳いて来た。ソコソコに飯を食つて停車場へ橇を走らした。妻は京子を負ふて送りに来たが、白石氏が遅れて来たので午前九時の列車に乗りおくれた。妻は空しく帰つて行つた。予は何となく小樽を去りたくない様な心地になつた。小樽を去りたくないのではない、家庭を離れたくないのだ。 |