明治四十年の小樽
 
 明治三十七、八年の日露戦争は苦戦しながらも幾つかの僥倖もあって勝利した。
 米国の調停で南樺太を領有した。そのため本州から移住者は函館から小樽まで鉄道で来たり船便で来るなど、小樽を中継して多く集まった。また対岸のシベリアとの貿易も地の利を活かして盛んになった。
 当時小樽は北海道の大都市でもあったわけである。明治三十七年春に市街地の大半を消失する大火があり、土地区画整理も進みこの年からは建築ブームが始まった。函館,札幌を経て小樽日報記者として来た啄木は小樽の印象を新聞や友人たちへの手紙に書いているが、「真に新開地的な、植民地的精神の男らしい町」であると表現している。
 

 
啄木写真帖(六) 色内大通り
 
(啄木来樽時の色内大通り・正月風景/現代日本文学アルバム)
 
 十一時頃出掛けて見た。世の中は矢張お正月である。天も地も、見る限りの雪も、馬橇の馬も、猫も鳥も家々の氷柱も、些とも昨日に変つた所はないが、人間だけは――実にその人間だけは、とんでも無い変り様をして居る。
(明治四十一年日誌/一月一日)
 

 
 
(明治四十一年・金田一京助宛賀状)