明治四十年の小樽
 
 明治三十七、八年の日露戦争は苦戦しながらも幾つかの僥倖もあって勝利した。
 米国の調停で南樺太を領有した。そのため本州から移住者は函館から小樽まで鉄道で来たり船便で来るなど、小樽を中継して多く集まった。また対岸のシベリアとの貿易も地の利を活かして盛んになった。
 当時小樽は北海道の大都市でもあったわけである。明治三十七年春に市街地の大半を消失する大火があり、土地区画整理も進みこの年からは建築ブームが始まった。函館,札幌を経て小樽日報記者として来た啄木は小樽の印象を新聞や友人たちへの手紙に書いているが、「真に新開地的な、植民地的精神の男らしい町」であると表現している。
 

 
 
啄木写真帖(四) 大黒座
 
(明治37年頃/市立小樽図書館所蔵)
 
 
(稲穂町の大黒座)
 
 
 猶此「大農」は新進作劇家佐野天声氏の作にて、人の既に知る如く、今春東京都新聞社が一千五百円の懸賞にて弘く江湖に募集したる新脚本四百余種中、諸大家の厳密なる審査の結果一等賞に当選したるものにて、此作一度出るや是非の声紛々として中央の評家狂へるが如くなりき。(中略) 記者は小樽の如き趣味低劣なる地に来つて斯くの如き新作を紹介せんとする竹内君の勇気を多とする者なり。
(小樽日報 明治四十年十二月一日・第三十五号/えんげい・大黒座)
 

 
 
啄木写真帖(番外) 少年時代の高田紅果
 
 

あはれかの眉の秀でし少年よ
弟と呼べば
はつかに笑みしが
 
(一握の砂/忘れがたき人人)