明治四十年の小樽
 
 明治三十七、八年の日露戦争は苦戦しながらも幾つかの僥倖もあって勝利した。
 米国の調停で南樺太を領有した。そのため本州から移住者は函館から小樽まで鉄道で来たり船便で来るなど、小樽を中継して多く集まった。また対岸のシベリアとの貿易も地の利を活かして盛んになった。
 当時小樽は北海道の大都市でもあったわけである。明治三十七年春に市街地の大半を消失する大火があり、土地区画整理も進みこの年からは建築ブームが始まった。函館,札幌を経て小樽日報記者として来た啄木は小樽の印象を新聞や友人たちへの手紙に書いているが、「真に新開地的な、植民地的精神の男らしい町」であると表現している。
 

 
 
啄木写真帖(二)
 
住吉座
 
(明治34年8月23日/小樽市総合博物館蔵)
 
 
仕損じたりと少し離れて後追へば、坂を下り坂を上りて住吉座の前までさしかゝりし頃、女は急に立止まりて、モウ此処までゞ大丈夫でございますからと云へる声は低からでよく我が耳に入れり。
片割月忍びの道行/小樽日報 明治四十年十月十五日・第一号
 
 
(明治末期/小樽市総合博物館蔵)
 
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