| 事の発端は、啄木が没した半年後、年号も変わった大正元年十月二十日に讀賣新聞の懸賞募集「讀書日記」二等に入選した人物が、小樽在住の(紅屋世の介:べにやよのすけ)でした。題は「生活と瞬間の讀書」。名前はペンネームだと思われ、文中には(紅屋世の介)が誰なのか手掛かりとなるヒントがいくつかあります。例えば、 「…港で汽笛の音がする、何て嫌な音を出すんだらう、毎朝あの音に脅かされてアタフタと店へ行くのかと思ふと …(略)… 藤田が今朝、『君は此頃口の先計りで物を言っている』と云つた、全くだ、僕はもう腹から聲を出す程力が無くなつた様な氣がする。僕は幾ら努力してもあの乾ききつた商賣には適し兼ねる。」 …(略)… 藤田から借りた故啄木の『悲しき玩具』が…(略)」 文中に(紅屋世の介)の友達として藤田の名前が出てきます。この場合の藤田とは藤田武治(南洋)が考えられます。なお(紅屋世の介)は、啄木の『悲しき玩具』(明治四十五年六月二十日発行、東雲堂書店)の歌集から 二晩おきに 夜の一時頃に切通の坂を上りしも− 勤めなればかな。 この一首を引用し、「何て嫌な歌だ、僕は直ぐと本を投り出した。こんな歌を讀むと如何にも、僕自身の毎日が鋭い彫刻刀で心臓を彫りつけられる様に感じる。…(略)」 さらに、「…啄木が小樽であの暗い六畳室に眼計り光からしつつ、むづかしい言葉で自分の悲惨な生活を、冷やかに説明したあの時の事が思ひ出される。あの男も死んだ(略)」と、啄木の家で聞いた話なども寄せています。文中には、(紅屋世の介)の住所(花園町学校通り、井上正夫方)とだけあって番地はありません。この他には、絵画に興味があるらしく、札幌へ「黒白会」主催の白樺社出品のロダン作品を観に出かけ、最終列車で小樽に戻っています。作品中から得たヒントは、この程度です。 啄木は、明治四十年十月二日に、@花園町十四番地へ移り、十一月五日まで住み、A十一月六日からは、花園町畑十四番地の家に移転。釧路赴任中の啄木は、四十一年一月二十七日の節子からの手紙で、B花園町十四の内、星川方に移った事を知りました。この家には啄木が釧路から函館経由小樽に戻って家を引き払う四月十九日夜まで在住していた。 なお、『啄木日誌』中、三軒の啄木宅を訪れた人々は、宮崎郁雨、野口雨情、佐田鴻鐘(康則)、西村樵夫(衛)、金子孤堂(満寿)、畑中、石原善太郎、園田愛緑、斉藤大硯、藤田武治、海老名又一郎、奥村寒雨(茂俊)、窪田総次郎、畑山、沢田天峰(信太郎)、吉野花峯、桜庭保、白田北洲(柳次郎)、本田荊南(龍=竜)、在原清次郎、小口露堂(善平)、高田紅果(治作=次作が正しいようです)、実相寺一二三、立花直太郎等でした。 前述したとおり、(紅屋世の介)は大正初年頃に花園町の学校通りに住んでいたとなっています。『啄木日誌』明治四十一年の(清盟帖)、四十二年、四十四年の(住所人名録)欄を見ると、花園町には沢田信太郎(花園町14、四十四年は花園町13に移る)と、佐田庸則(花園町14、遊園館)、奥村寒雨(四十一年は花園町14、翌年15、後は不明)の三人が住んでいました。この内の誰かが藤田と付き合っていたかも知れません。 他に、藤田の友達としては高田次作(紅果)、吉野花峯(小樽日報歌壇の投稿者)がおり、藤田、高田の先輩格として佐藤清一がおりました。 この中から特に高田次作の名が浮かびます。十八歳の頃、藤田と共に啄木と会い、その後啄木を文学上の師と仰ぎ、保険代理業「奥田商会」へ勤めていました。高田のペンネームは、「高田紅果」ですから「紅」をとって「紅屋世の介」としたとも考えられ、絵も描いていたようです。 否、高田次作ではない、という見方もあります。「紅屋」という名は、文中「…アタフタと店へ行く」の店の屋号から付けたとも考えられます。又、高田紅果は、明治四十二年九月一日号『秀才文壇』に「間借」と題した短編小説を投稿し、徳田秋声の選で一等に入選した事を『在りし日の啄木』の記録に残しており、もし本稿の讀賣新聞懸賞募集の二等入選者なら、この事も記録に残していたはずだと思われますが…。 この当時、高田次作(紅果)の住所を『啄木日誌』の清盟帖及び住所人名録から調べてみると、 明治四十一年・小樽区、稲穂町 明治四十二年・小樽南浜町六丁目一 奥田方 明治四十四年・小樽区南浜町六ノ一 旭川歩兵二十六レンタイ中隊第五班 の記述があります。なお、啄木が明治四十四年十二月十三日夜、高田次作へ送った書簡には、「…君の入営を悲しむ。 …(略)… 僕はあゝいふ世界へはいつても、決してその二年間を無益には費やさない人だと信ずる」 とあります。高田の正確な入営日は判りませんが、啄木の手紙から判断すれば、翌四十五年一月中に入営したとして、その後二年間は兵役があり、除隊は大正二年十一〜十二月頃ではないでしょうか。(注・明治四十五年は七月三十日、明治天皇が崩御され、同日に大正元年となり五ヶ月で終わる)。 (紅屋世の介)の入選作が讀賣新聞へ掲載されたのは大正元年十月二十日、高田は兵舎の中におり、除隊まで未だ一年残し、「小樽花園町学校通り、井上正夫方」には住んでいない事になります。 ご承知の通り、高田と藤田の二人は啄木より年下の若者であり、啄木を師と仰いでいました。その高田が『悲しき玩具』の「二晩おきに…」の歌を「何て嫌な歌だ」、また「あの男も死んだ」と、啄木を「あの男」と蔑むような表現が出来るでしょうか。(紅屋世の介)が啄木を見る目線の高さからも高田紅果ではない…とも考えられます。 なお、「藤田」と呼び捨て出来る人物としては、藤田、高田の先輩格として佐藤清一がいます。ただ啄木と会っていた記録は無く、しかも高田が記した「啄木と逢った頃」によれば、佐藤清一は、明治四十三年の晩秋に亡くなったとされています。 (注・高田紅果遺稿―歌詩『原始林』昭和三十年九月号所載=『回想の石川啄木』著に転載あり) ここまで一つの推測を述べてきました。どこかで大事な事を見落とし、間違いに陥っているかもしれません。そこで、小樽市の啄木愛好家、研究家の皆さん、啄木が小樽在中に会った(紅屋世の介)が誰なのか確固たる証拠の探索をお願いします。未解明のまま、今年で九十七年目となりました。 |
| * 荒木茂氏、福地順一氏の論文、塩浦彰氏著書を参考にさせて頂きました。 * 『啄木浪漫』(節子との半生)・塩浦彰著。洋々社。 * 「讀賣新聞」(東京版)大正元年十月二十日(日曜日)。 * 『石川啄木全集』(筑摩書房)第五巻・第六巻日記、第七巻・書簡。 * 『回想の石川啄木』編者・岩城之徳。八木書店。 * 『石川啄木と小樽』倉田稔著。成文社。 |