| 啄木と本田龍(号は荊南)の交友は、函館の「函館日日新聞」から始まり、札幌では「北門新報」で共に働き、小樽でも啄木は「小樽日報」、龍は「北門新報」・小樽支社長として二人は会っていた。特筆すべきは、小樽時代の明治四十一年一月四日、西川光次郎等が社会主義演説会を寿亭で行った際、啄木を誘ったのが本田龍である。 当日、高田紅果も演説会に行き、啄木が閉会後の茶話会に出ていた様子を記録(注1)に残している。これにより当時、啄木が持っていた社会主義の知識を判断出来るが、本田龍が社会主義知識をどの程度持ち、啄木に影響を与えたか否かは次回としたい。 今回は、啄木と本田龍の交友を『啄木日誌』で読み解き、さらに本田龍と戦前に会っていた福田常雄氏が、「石川啄木記念館」館報(第九、 十号)へ初対面の想い出と、平成七年に龍の長女(久保京子)さんと会って龍の履歴を聞き出し寄稿しているので、これを要約、抜粋し再掲載した。なお筆者(横山)が本田龍の長女(久保京子)さんから拝借、複製、掲載許可を頂いた家族写真を公開します。 |
| 啄木は、「小樽日報」に勤めていた明治四十年十一月十二日、事務長の小林寅吉と喧嘩して退社、就職浪人となる。下記は、三週間後の明治四十一年一月二日の『啄木日誌』であり、本田龍について最初の記述がある(明治四十一年の『戊申日誌』と『明治四十一年日誌』を分析)。 「…(略)…帰つてみると、大硯君と本田荊南(竜)君が待つて居て、正月らしい大きな声で笑つて居る。一緒に大硯君の宅へ行つて、豚汁で盛んに飲み盛んに喰つた。気焔大いに昂り、舌戦仲々素晴しかつた。三十六の大硯君は樺太へ行つて大地主になるといふ。二十五の本田君は成功せぬうちは北海から一歩も南へ帰らぬといふ。所謂文明北進主義だ。薩南の健児、屹度成功する性格だ。二十三の自分は、金さへあつたら東京へ行くと主張した。酔つて帰つて十一時眠る。」 とある。龍の名は、これ以前の『啄木日誌』に見当たらないが、ここでの三人は旧知の如く振る舞っている。啄木は前年の函館時代に遊軍記者として「函館日日新聞」に短期間勤め、その時の主筆が斉藤大硯(哲郎)で、龍も記者をしており三人とも面識があったからである。 なお、三人がこの時小樽に居たのは、やはり前年の八月二十五日、函館の街は大火となり「函館日日新聞社」の社屋が焼失、このため相前後して函館を離れた。啄木は札幌の「北門新報社」に移り、龍も記者として同社に移ったので、二人は再び同じ新聞社で働くことになった。啄木は校正係として勤めていたが、間もなく野口雨情と共に小樽の「小樽日報社」に移り、本田龍と別れた。龍は「北門新報社」に残ったが、同社の小樽支社長として赴任、斉藤大硯も浪人中の身で小樽に来ており、三人は一段と交友を深めていた。なお、日誌では「…二十五の本田君…、二十三の自分…」と啄木は二人の年齢差を二歳と記しているが、本田龍は明治十四年八月生まれであり、啄木は明治十九年二月の誕生説を採った場合、年齢差は五歳となる。啄木は龍を薩南の健児と記しているので九州、鹿児島出身ということも判る。『戊申日誌』の三日では「…夕方、本田君が三」とある。もし、これが「…本田君から三」とあるなら、本田龍から三円借りた、と解釈も出来るのだが…。『明治四十一年日誌』の方ではこの箇所が省かれている。 一月四日 「……(略)……夕方本田荊南君に誘はれて寿亭に開かれた社会主義演説会に行つた。会する者約百名。小樽新聞の碧川比企男君が体を左右に振り乍ら開会の辞を述べた。添田平吉の“日本の労働階級”、碧川君の“吾人の敵”、共に余り要領を得ぬ。……(略)……」 啄木は明治四十年十二月二十八日の夜、斉藤大硯から翌二十九日の札幌での西川光次郎等の社会主義者の演説会を聞きに行こうと誘われ、断っている。これは西川等が小樽に来る情報を三ヶ月前の九月二十八日(注2)、既に面識のあった「小樽新聞」社会部長の碧川企救男(啄木は「比企男」と誤記)、或いは本田龍あたりから情報を得ていたものと思われる。尚、碧川が西川光次郎一行を呼んでいた。 いずれにしても、啄木は本田龍に誘われ西川光次郎等の社会主義演説会を聞きに「寿亭」へ行き、閉会後の茶話会にも出て質問したり、西川光次郎と名乗りあった様子などを高田紅果が記録に残している。なお龍が啄木と共に茶話会に同席したかどうかの記録はない。ただ、『戊申日誌』の方には「…十時頃に閉会して茶話会を開くといふ。自分らも臨席して西川君と名告合をした」とあり、「自分ら」と複数になっている事から、龍も啄木と一緒に出ていたものと解釈できる。『明治四十一年日誌』の方では、啄木だけ出席しているように取れる。 この頃、本田龍は、「北門新報」小樽支社長をしていたが、啄木日誌の一月十三日では 一月十三日 「……(略)……顔を洗ふて居る所へ本多君が来た。本田君の話によれば、「北門新報」の休刊について、社長村上祐氏を初め、主筆上野 この日の午後、啄木は小樽日報社の宿直室で白石社長に会い、「釧路新聞社」行きを打診され受諾、啄木はその足で山ノ上町にあった龍の下宿(源館)を訪ね、一緒に釧路新聞社へ入ろうと誘う。これは啄木の龍に対しての好意である。龍にとっては「北門新報」が閉刊間近であるだけに渡りに船であり、龍は啄木と一緒に行くことに同意した。日誌には、「…共に携へて同紙へ這入るといふ内約を整えた」とある。だが結局、龍は小樽に残った。なぜだったのか。その二日後の日誌では 一月十五日 「……(略)……本田君が来た。野口雨情君が久振りで来た。本田君は別れのつもりで蜜柑をドツサリ買つて来た。……(略)……」 本田龍が、啄木との別れのつもりで蜜柑をドツサリ買って来た、とあるが、「別れのつもり」と「ドツサリ買つて来た」には、二日前に啄木が釧路行きを誘ったのに対し、龍が断った事が読み取れ、さらにお詫びの意味も込まれていたので、こんな表現になったと思われる。 啄木は一月十九日、小樽〜札幌〜岩見沢〜旭川〜釧路へ行き、「釧路新聞社」に勤める。以後、啄木が釧路滞在中、両者の間に書簡の交換があった事が日誌でわかる。特に、『啄木日誌』二月十二日の記述には、小樽の沢田信太郎、藤田武治、高田冶作、そして本田荊南(龍)から詳しい消息があったと記されている。 本田龍からの消息がどのような内容だったのか判らないが、啄木、龍と面識のある碧川企救男が、この二月「小樽新聞」の社会部長を辞めており(注3)、四月に本田龍が「小樽新聞」へ入社(注4)しているので、このあたりの消息だったように思える。 釧路における啄木は、諸々の事情と共に東京病が起こり、四月五日に釧路港から船で函館へ向かう。函館港には四月七日の夜に着き、宮崎郁雨の協力(援助)で単身東京行きが決まる。 啄木は小樽に残っている家族を引き取るため四月十三日夜、小樽に向かう。啄木は、小樽滞在中の事を「小樽の六日間」と『啄木日誌』に記し、それを見ると滞在中に、野口雨情、沢田信太郎、小口善平、藤田武治、高田紅果、佐田、奥村、塚原新人、五日間でこれ等の人と会っている。いずれも啄木が相手の所へ出かけたり、先方から啄木の家へやって来た。 啄木一家が小樽を離れる最後の日、しかも夜に「小樽新聞」に勤めている本田龍が啄木の家にやって来た。 啄木は龍からの手紙や、右の仲間達から、龍が「小樽新聞」に居る事を聞いて知っていた。この日まで啄木が龍に連絡しなかったのか、或は連絡したが、龍の方でこの日まで都合つかなかったのかは分からない。 四月十九日 「……(略)……夜、図らずも本田荊南君来る。荷物の事奥村に置手紙で頼んで、八時十分、一家四人小樽駅から汽車に乗つた。切符は函館迄。」 日誌の記述には無いが、小樽駅で啄木一家を最後まで見送った人物は、本田龍以外にもいたのであろうか。 二人が小樽駅で別れた日は、明治四十一年(1908年)四月十九日だった。昨年(平成二十年=2008年)が、二人の別れから100年目にあたった。 なお、小樽駅で別れた二人は以後、直接会った記録は今のところない。本田龍は明治四十四年、月日は不明だが、「小樽新聞」の東京支社長として上京して来た。この時、「東京朝日新聞社」の校正係りとして勤めていた啄木と会った可能性もある。この点に付いては、今後の研究を待ちたい。 |
| 数年前から本田龍の足跡を調査していたところ、偶然にも本田龍の長女、久保京子さんと連絡がとれ訪問(注5)、姪の加藤淑子さん立会の下、話を聞く事ができた。さらに龍と家族の写真も拝借でき、複製、掲載の許可も得ています。 本田龍の調査については、既に北海道自動車短大助教授の荒木茂氏がいました。荒木氏も龍の全貌は把握されてはいなかったが、戦前に、本田龍と直接会っていた「岩手放送」顧問の福田常雄氏が、平成七年二月と、翌八年二月「石川啄木記念館」館報第九号、十号へ寄稿した事によって明らかになった。 それによれば、福田氏が館報第九号へ本田龍との出会いを寄稿した直後、本田龍の長女、久保京子さんがイトコの深沢典子さんと偶然「石川啄木記念館」を訪れ、学芸員の山本玲子さんが案内中に久保京子さんは本田龍の長女と判り、福田氏へ連絡された。連絡を受けた福田氏は、京子さんと東京の銀座で会われ、京子さんのお話から龍の履歴が判明した。福田氏は、この経緯を翌年の館報第十号へ寄稿された。 既に、二つの館報を読まれた方もおいでになると思いますが、以下は両紙から抜粋、要約したものです。 福田常雄氏は、岩手県盛岡市の近郊、滝沢村出身、昭和十七年十月に早稲田大学、高等師範部国語漢文科を繰り上げ卒業して「東亞新報社」へ入社した。福田氏は当時銀座にあった東京支社へ入社の挨拶に行き、支社長をしていた本田龍と会い、翌年二月半ばに中国の天津支社へ同僚となる、辻一、山口龍と赴任した。 福田氏は戦後になって天津から戻られ「岩手日報社」へ入社、後に東京支社の次長職に就く。その後は、「岩手放送」設立に参加、専務を経て同社の最高顧問となる。この頃から啄木研究を始め、戦前に一度会った本田龍の名前を『啄木日誌』から見出し、探すことになった。 福田氏は、本田龍を調べるにあたり、市立函館図書館の白畑館長から冒頭の荒木氏の紹介を受け、氏から本田龍の両親名、本籍地、龍の生年月日と妻(カネエ)との結婚日、子供名、東京へ移した本籍地を聞き及んだ。その後、福田氏が調べたものも併せ列記すると 本田龍…… 明治十四年八月三日、鹿児島市生まれ。本籍・鹿児島市、下荒田二百五十六番地。本田源吾(父)、サタ(母)の三男。大正二年一月十一日、阿部カネエと結婚。子供(長女・京、長男・龍雄、次男・真) 昭和十九年十一月、本籍を東京市、中野区宮前町二十六番地に移す。 明治四十年 函館「函館日日新聞」記者 明治四十年(秋) 札幌「北門新報」 記者 明治四十年?月〜 小樽「北門新報」小樽支社長 明治四十一年四月 小樽「小樽新聞」 入社 明治四十四年〜昭和三年 小樽「小樽新聞」東京支社長 昭和三年〜 ?年 小樽「小樽新聞」本社営業部長 昭和十四年〜戦後?年 東京「東亞新報」東京支社長 戦後 ?年〜 ?年 東京「島根新聞」東京支社長 福田氏の記述によると、「…龍は五人兄弟の末弟で、次男の猛は当時、ニシン漁で栄えた函館の網元、鹿島家に養子になった縁で、渡道した。はじめ次兄のところで手伝っていたが、函館日日新聞に入り、ここで啄木と知り合い、意気投合したらしい。遊軍記者とはいえ飛び回るのが苦手の啄木は、もっぱら龍のネタ探しに期待し、話を聞いてはそれを記事にしたことは、夫人も聞いたとのことである。函館の大火で焼け出された二人は、小樽に移っても友情は続いた。…(略)…龍は秋田出身のカネエと小樽で結婚し、京子夫人はここで生まれた。龍は啄木を忘れがたく、彼の娘の京子と愛娘は同じ名前にした。 …(略)… 龍は、敗戦により東亞新報社の残務整理をしていたが、東京支社間で評判がよく島根新聞、伊達社長と懇意なところから東京支社長をしばらく続けていた。 なお、龍は、東京中野区宮前町で戦災に遭ってから、西荻窪、板橋、上高田と転々とし、ここで十二歳年下のカネエ夫人を失った。しばらく龍は一人暮らしをしていたが、天沼(杉並区)に結婚して居を構えていた京子さんと同居し、昭和五十二年(1977年)八月、九十六歳の天寿を完うした。墓は鹿児島の神式の墓地にあるが、近く久保家の八王子市片倉霊園に移すことになっている」 とある。福田氏が寄稿した館報第十号には、龍の写真を未だ入手していなかった為、掲載されていなかった。福田氏は、最後に龍と会った昭和十七年秋、龍の年齢は六十一歳の初老のイメージだったとし、さらに若い頃に啄木を誘って社会主義運動に関心を持って走り回ったようには考えられない、と記している。 龍が小樽時代と大正時代に社会主義思想を持っていたかは調査中であるが、昭和初年頃の文献(注6)には「皇室中心主義」とある。その辺りの事はいずれ発表したい。 福田常雄氏は、平成十四年五月八日、逝去(八十五歳)、京子さんも平成十九年一月一日、天上の御両親に会いに行かれた。(九十四歳) |
| (1) 『啄木と小樽・札幌』(小樽啄木会編・昭和五十一年十月二十日発行)みやま書房。高田紅果「在りし日の啄木」掲載文より。 (2) 明治四十年九月二十八日の『啄木日誌』 「…序を以つて小樽新聞社に緑川君を訪ふて帰る」とある。碧川が正しく、緑川と誤記している。 (3) 『石川啄木と小樽』倉田稔著。(成文社)二〇〇五年三月発行。 (4) 『新聞人名辞典』(第一巻、第二巻)。一九八八・二・二十五。日本図書センター。底本は永代静雄編、「新聞及新聞記者」(日本新聞年鑑)。『昭和新聞名家録』(新聞研究所)昭和五年。 (5) 平成十八年八月三十日に久保京子さん宅を訪問、耳が遠いので、姪の加藤淑子さんに立ち会って戴いた。 (6) 注(3)に同じ。 |
| * 『石川啄木全集』第五巻、第六巻日記(筑摩書房)。 * 『石川啄木辞典』(石川啄木学会編)おうふう社。 * 『啄木と小樽・札幌』(小樽啄木学会編)みやま書房 * 『石川啄木と小樽』(倉田 稔)著。成文社。 * 『石川啄木記念館』館報・第九号(平成7年)、第十号(平成8年)。 * 「本田龍の家族アルバム」現在は、姪の(加藤淑子さん)所蔵。掲載許可済み。 * 「福田常雄氏・資料及びアルバム」長女(村上征矢子さん)所蔵。掲載許可済み。 |