| 明治40年(1907)石川啄木は故郷の岩手県渋民村を追われるようにして北海道に渡る。函館、札幌、小樽、釧路へと漂泊の一年である。小樽では第2次「小樽日報」創刊時、野口雨情とともに活躍した。小樽でのことは日記や書簡、それに執筆記事をスクラップした「小樽のかたみ」などを通じて知ることができる。 26歳余の短い生涯で生活面についてはかなり厳しい評価が多いが、短歌などは百年経った今でも教科書にとりあげられている。そのほか小説、評論なども再評価されてしかるべきだろう。 小樽では没後の翌年、大正2年(1913)に啄木と直接会った文学青年の高田紅果、藤田南洋などが中心になり忌日会を開き、その後も会合が続いていた。時代はくだり太平洋戦争敗戦後、今に続く小樽啄木会の活動が始まった。まずとりあげたのは小樽関連図書の出版と歌碑の建立運動だった。 その成果があらわれ現在市内には三基の歌碑がある。最初は昭和26年(1951)市の助成と市民の寄付により小樽公園に建立された。 こころよく 我にはたらく仕事あれ それを仕遂げて死なむと思ふ その後昭和55年(1980)水天宮に、経済人の集まりの「親潮会」が創立50周年記念として建立した。 かなしきは小樽の町よ 歌ふことなき人人の 声の荒さよ 第3の歌碑は平成17年(2005年)小樽駅前から三角市場への階段上にあり、一般市民の寄付による建立である。義兄の山本千三郎が駅長であったこと、また啄木が家族を残して釧路新聞に赴任した時の駅である。なお建立日は国際啄木学会札幌大会小樽文学散歩 に合わせて10月23日に除幕した。 子を負ひて 雪の吹き入る停車場に われ見送りし妻の眉かな |
| 平成19年(2007)は啄木来樽百年となるのを記念し、小樽啄木会は市立文学館と共催で、10月13日の「啄木祭」を計画した。講演会と「朗読と歌の夕べ」である。後者は小樽市教育委員会教育部次長(社会教育担当)の中村浩さんの全面的な協力があった。 中村さんは潮陵66期で在学時代から音楽部(混声合唱団)の指揮をしていた。さらに神戸商大に進学し、伝統あるグリークラブの学生指揮者を務めた経歴がある。 小樽市役所に勤務してからは、職場合唱団として道内でも注目される市役所グリークラブに入り、その後指揮をするようになって二十五年になった。また十年以上も前から小樽合唱連盟理事長として市内の合唱の団体をまとめている。さらに全日本合唱連盟の理事や北海道支部の副支部長の要職にある。 こんなことから今回の「朗読と歌の夕べ」のマネージメントもすべてお願いしたようなものだった。 実は小樽啄木会の水口会長が四十年以上前、「啄木忌の集い」で当時潮陵高校の松木光治先生が持参したテープで、札幌出身のテノール歌手奥田良三の歌う、啄木の「初恋」などの歌曲を聞いて感激した事を時折思い出していた。 来樽百年の節目にあたり、小樽発の啄木の歌が出来ないものかと文学館の玉川副館長にも話したが、そんなに作曲は簡単なものではない。それに費用の目途もないので無理と一蹴されてしまった。それでもあきらめきれず三基の歌のうち一首でも何とかならないだろうか。そんな思いを中村さんに話したそうである。 |
| 中村さんは早速心当たりがある方たちに作曲を依頼するために、啄木の短歌の背景〜中でも北海道漂泊の啄木の心境などの取材や曲の構成を進めるうちにメロディと和声が浮かび、結局自分で作曲することにしたという。 啄木の歌は大変魅力的なので、多くの作曲家が数百の歌曲を作っている。最も著名な越谷達之助の「初恋」は小樽出身のソプラノ北嶋康子さんが快く演奏を引き受けてくださった。文学館にグランドピアノが無いので、旧東山中学校の音楽室で眠っていたヤマハG5を佐野調律師に依頼して再生しよう。 今年新井満が作曲した「ふるさとの山に向かひて」と小樽市内の三歌碑による新曲を市役所グリークラブの男声合唱で演奏しよう。そんなふうにプログラムが組み立てられていった。これまで編曲は手がけたが作曲は初めてという中村さんの意気込みが感じられる。 完成した男声合唱曲は、まずアカペラの前奏ハミングに短歌のナレーションが重なり、なんと三つの歌碑の短歌が間奏ハミングとクロスオーバーする朗読でつながっている。中村さんは「朗読と合唱のコラボレーション」といっているが、とてもモダンな感じがする。歌それぞれが全く違った発想の歌なので、曲もそれにふさわしいメロディでまとめられている。 初演会場は、「啄木来樽百年記念“朗読と歌の夕べ”」の文学館展示室。 作曲者の中村さん指揮、市役所グリークラブによる男声合唱特有の重厚な曲が流れ、啄木祭にふさわしい演奏であった。 前述のように啄木短歌の歌曲は数百曲あるが、こんどは小樽発の新曲登場で全国でも歌われることを期待している。 |