丘の上、万朶の桜
―〈小樽の啄木〉との出会い―
 
亀井 志乃
 
 私が初めて小樽啄木会主催の〈啄木忌〉に参加させていただいたのは、今から4年前、2003年の春のことでした。その頃、仕事もなく、何となく足元がふわついているような頼りない感じで日々を過ごしていた私の所に、どういうわけか、石川啄木についての講演のご依頼が舞い込んできたのです。
 お引き受けはしたものの、啄木のことに関して、詳しかったわけでは全くありません。どのように啄木の世界に切り込んだらよいのか皆目わからず、ただ、わずかに見いだしたとば口と言えば、自分の研究テーマである〈白樺派〉と、ほぼ同世代だという事のみでした。その両者の表現意識を、当時の創作者たちが注目していた〈写真〉テクノロジーの発達過程と結びつけ、同時代性として再考しようと試みた論考が、その日の講演「心のスナップショット」です。ラスト近くでは、啄木の短歌における独特な対象の切り取り(trimming, framing)意識にまで何とか言及する事が出来ましたが、今から考えれば実に強引かつ未熟な内容の話で、お聴き下さった方々に対し、本当に申し訳ない思いが致します。

 そのような事情もあり、また、ただでさえ慣れない講演に少しあがってもいたのか、自分が語っていた最中の事は、ほとんど覚えておりません。かえって、今でも印象が鮮やかによみがえるのは、その後、啄木歌「かなしきは小樽の町よ 歌ふことなき人人の声の荒さよ」の碑を目指して、水天宮の丘に登った時の事です。
 その日、5月の風はまだ冷え冷えとしていましたが、水天宮の桜は、今を盛りと咲き誇っていました。境内の広場にたどりついた私の目に、木の間がくれの港の風景が飛び込んできました。小樽と言えば、街中か運河沿いしか知らなかった私にとって、高台から見る街は、眼下に広がる新鮮なパースペクティヴでした。そして、やがて、ほろほろと桜が舞い散る中で、山田猿岳氏が詠いあげる啄木歌が、朗々と辺りに響き渡ってゆきました――。

 あの絵画のような情景は、啄木の歌と、それを愛する小樽の人々が、年月をかけて創り出してきたものだという事に気づいたのは、ようやくこの頃のことです。
 一人の青年としての啄木は、生涯、天才意識という業に取り憑かれ、穏やかな幸せを手に入れる事は出来なかったかも知れない。しかし、彼の歌だけは世にとどまって、その旋律に共鳴する人たちの心の中で、毎年生まれ変わり続けています。あの日の万朶の桜は、巧まずして、そうした〈再生〉の象徴のように咲き誇っていたからこそ、あんなに印象的に心に映ったのかも知れません。

 思えばあの日から、〈石川啄木〉と私との、新しい出会いがはじまった気がするのです。