第94回 小樽啄木忌の集い 講演
 
「小樽のかたみ」のおもしろさ
第4回
 
新谷 保人
(スワン社/「おたる新報」編集長)
 
 
 
新聞に対する批評は概ね好評たり。
小樽新聞は我が三面を恐ると、さもあるべし。
(啄木 明治四十年丁未歳日誌/十月二十四日)
 
 

1.「小樽のかたみ」とは?
 @小樽日報社
 A三面主任
 B明治四十年十二月十二日
 C「小樽日報と予」

2.小樽日報と釧路新聞
 @函館日日新聞〜北門新報
 A小樽日報
 B釧路新聞
 C東京朝日新聞

3.「小樽のかたみ」のおもしろさ
 @十月十五日・初号発刊
 A「手宮駅員の自殺未遂」
 B「昨日の初雪」
 C「お嬢様派出所を狙ふ」
 D「出没自在の美人」
 E「天下一品怪美人の艶書」
 F「雪の夜」

4.新聞記者・啄木
 @「東京スポーツ」
 A読者
 
 
 

 
 3.「小樽のかたみ」のおもしろさ
 
 A 「手宮駅員の自殺未遂」
 
 「手宮駅員の自殺未遂」は、小樽日報の明治40年10月24日・第三号に載せられた記事です。
 
 この記事を取り上げた理由は、この10月の時期あたりまでは、啄木は、まだ「事件」を書こうとしていた…という証拠書類としての意味あいです。本当に、この頃までは、現実に起こった巷の事件をきちんと新聞記事に起こしていたのです。
 「起こしていた」と過去形で言うのは、じつは、11月頃に入りますと、啄木の書く記事に、こういうセオリー通りの事件記事とは明らかに異なる新聞記事の系列が顕れはじめるんですね。それは、後で紹介します「出没自在の美人」とか「天下一品怪美人の艶書」といった記事なんですが、本当にもう啄木ワールドとしか言いようのない独特の世界です。
 そういう啄木ワールドといったものが、ある日突然、啄木の天才によってこの世に出現したものではないことを確認したくて、この「手宮駅員の自殺未遂」を選びました。
 
 啄木は、こういう事件記事もきちんと書ける人なのです。基本的には。この系列の記事を挙げておきます。
 10月24日号の「手宮駅員の自殺未遂」、「挙動不審の男」〜26日号の「小樽荒し大盗」〜27日号の「一家三人の入獄」〜31日号の「岩内美人の大失策」〜11月10日号の「不敵の女捕はる」などなど。
 
 これらの事件は、当然、他の新聞でも扱われています。当時の「小樽新聞」「北海タイムス」の記事と読み比べてみますと、それほど新聞記者・啄木はいい加減な「石川くん」ではないことはすぐにおわかりになることと思います。
 お配りした資料、片面が「小樽日報」明治四十年十月二十四日号の三面。裏面が同日の「小樽新聞」三面です。どちらも「手宮駅員の自殺未遂」事件を扱っていますので、お時間がありましたら両者を比較してみてください。
 
  
 
 この「小樽日報 明治四十年十月二十四日・第三号」というのはたいへん貴重な資料です。日本で(いや世界で)現存する「小樽日報」というのは、この「第3号」ただ一部なんですね。本当に、これ一部のみ。
 これを所蔵しているのは、北大の附属図書館です。なんでも、附属図書館の「小樽新聞」のファイルの中に間違ってこの「第3号」が綴じ合わされ、それで奇跡的にこの世に残されたらしいです。本当に、明治の北大図書館員のチョンボには感謝、感謝です。
 
 ご覧の通り、新聞の全面が総ルビです。この総ルビと新聞最終面を埋めつくすものすごい量の広告が明治の新聞の一大特徴。
 
 第三号の三面を見ているだけでも、いろいろな発見があります。例えば、三面の左下の部分。天口堂の「姓名判断」広告がありますね。
 
 
 この天口堂海老名又一郎は、啄木の小樽最初の住居(現在の「た志満」の場所)で、啄木一家と襖一枚へだてた奥の部屋に住んでいた易者先生。「泣くがごと首ふるわせて/手の相を見せよといひし/易者もありき」と『一握の砂』にも詠われている先生です。
 啄木も実際に占ってもらったみたいで、明治40年10月17日の日記には「天口堂主人より我が姓名の鑑定書を貰ふ、五十五歳で死ぬとは情けなし」なんて記述もありますね。
 気が合ったのでしょうかね… そういうことを頭に入れながら、ちょっと隣りの「ハガキ集」という読者投稿欄を見てください。そこにある嶺南氏のご意見、「▲姓名判断なんて近頃奇的烈な記載物は読者一同の歓迎する所にして連日記載して貰いたひ是れは読者を代表して僕の希望する所である」という投書ですが…これなんか、明らかに口調が啄木なんですね。それに、普通の一投稿者が「読者を代表して」なんて偉そうな物言いをするものでしょうか?
 
 あれこれ考えますに、どうも、この「ハガキ集」部分も啄木の筆になる部分なのではないかと私は推理しています。他にも、いくつか、それらしき証拠がありますし…
 
 例えば、▲三つ目の「注文生」氏の投書。「近頃入舟町辺に毎夜迂散臭い女が徘徊するが夜鷹にあらねば大方恋路に血迷ふ者であろう御社の精探を乞ふ」ですが、これ、11月26日の第三十号に啄木が書くことになる「出没自在の美人」という記事とまったく内容が同じなんです。(「精探」という啄木が好きな用語を使っているのも、なんか、馬脚という感じ)
 そういう観点で見て行けば、例えば▲二つ目の「鼠小僧」氏の話は、同じ第三号の啄木記事「酒代を強請てお目玉」ですし、▲四つ目の「色内女史」の女言葉は、11月の「天下一品怪美人の艶書」で使った技を思い起こさせます。(啄木は女言葉、得意ですからね…)
 
 まあ、啄木にしてみたら、こんな文章まで切り抜いたってしょうがないだろう…ということなんでしょうけど。でも、とても残念ですね。小樽日報の現物があれば、私たちは、もっともっと啄木ワールドを楽しむことができたであろうことは確実と思います。
 
 
 B 「昨日の初雪」
 
 『一握の砂』には、小樽日報社を詠った「かの年のかの新聞の/初雪の記事を書きしは/我なりしかな」という、たいへん美しい歌があります。
 この歌と「小樽」には、じつは深い関係があるのです。小樽での、最初の啄木歌碑は、じつはこの歌だったんですね。
 
 
 昭和二十二年小樽啄木会が結成されたが、とりあえず当面の課題は歌碑の建設であった。そのことは高田紅果が会合のたびに訴えていた。………この期成会が昭和二十三年六月五日、小樽公園東山の白樺林(現在こども遊園地になっているあたり)に、市役所から五寸柱の提供を受け仮歌碑を建てた。………しかしこの仮歌碑は二年後心なき人に持ち去られた。当時の燃料難が原因であったと騒がれたが、この事で本格的な歌碑建立運動が一層盛んになったとも言える。
(小樽啄木会編『新・小樽のかたみ』より「小樽の啄木歌碑―東山仮歌碑建立」)
 
 で、これが、その「初雪の記事」なのでした。
 
 

(次回「3.小樽のかたみのおもしろさ」は、11月3日発表予定)
 
配付資料
■「小樽のかたみ」抄 新谷保人編 (スワン社,2006)
■「小樽日報」「小樽新聞」明治40年10月24日・三面コピー(縮小)
■「北海タイムス」明治40年11月17日記事「怪美人の凄腕」
■荒木茂編著『小樽日報記者 石川啄木地図』(1990.4発行)
 
主な参考文献 (※すべて市立小樽図書館所蔵)
■マイクロフィルム「小樽新聞」明治40年10〜12月
■北海道樺太の新聞雑誌 □刀(くぬぎ)真一 (北海道新聞社,1985)
■星霜 北海道史1868―1945 (北海道新聞社,2002)
■啄木・釧路の七十六日 宮の内一平 (旭川出版社,1975)
■朝日新聞社史 明治編 (朝日新聞社,1990)
■回想の石川啄木 岩城之徳編 (八木書店,1967)
■二葉亭四迷の明治四十一年 関川夏央 (文春文庫,2003)
■石川啄木の「小樽日報」記事ノート 荒木茂 (北海道自動車短大研究紀要・第13号,1987)
■「小樽のかたみ」について(一) 荒木茂 (北海道自動車短大研究紀要・第13号,1987)
■小樽日報記者石川啄木地図 荒木茂 (北海道自動車短期大学,1990)