第94回 小樽啄木忌の集い 講演
「小樽のかたみ」のおもしろさ
第3回
新谷 保人
(スワン社/「おたる新報」編集長)
新聞に対する批評は概ね好評たり。
小樽新聞は我が三面を恐ると、さもあるべし。
(啄木 明治四十年丁未歳日誌/十月二十四日)
1.「小樽のかたみ」とは?
@小樽日報社
A三面主任
B明治四十年十二月十二日
C「小樽日報と予」
2.小樽日報と釧路新聞
@函館日日新聞〜北門新報
A小樽日報
B釧路新聞
C東京朝日新聞
3.「小樽のかたみ」のおもしろさ
@十月十五日・初号発刊
A「手宮駅員の自殺未遂」
B「昨日の初雪」
C「お嬢様派出所を狙ふ」
D「出没自在の美人」
E「天下一品怪美人の艶書」
F「雪の夜」
4.新聞記者・啄木
@「東京スポーツ」
A読者
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3.「小樽のかたみ」のおもしろさ
「小樽のかたみ」の読み込みを始める前に、ちょっと蛇足を。
以前、啄木の小樽日報社入社時の年齢22歳 (東京朝日新聞入社でさえ24歳)を取り上げて、さすが天才!22歳の若さで新聞記者とは!とやっている文章を読んだことがあるのですが…
これは誤解ですね。当時の新聞界を担っていた人たちは皆若いんです。新聞は当時のニューメディアですから、あまり学歴や出身にとらわれることなく、雑多な才能たちが集まってきている世界だったのです。
例えば、大酒のみ故「オミキ呑ん平」と呼ばれていた口語短歌運動の歌人・並木凡平が小樽新聞の記者になったのは19歳の時です。また、先ほどお話しした斎藤大硯。彼が東京専門学校を中退して日本新聞社に入ったのが20歳。函館日日新聞主筆になった時でさえ、30歳という若さです。
啄木の22歳は、普通でしょう。
現在の価値観や倫理観を啄木の生きた明治40年の北海道に持ち込むのは、ちょっと可哀想な気がしますね。当時の北海道は、まだ遊郭も軍隊も当然のように存在する世界です。「北海道旧土人保護法」が公布されてわずか8年後の世界だったことを私たちは知らねばなりません。
@ 十月十五日・初号発刊
さて、明治40年10月15日。「小樽日報」初号(創刊号)が発行された日です。啄木日記にも、楽隊パレードや提灯行列まで繰り出し、夜の精養軒(現在の中央バス駐車場のところ)で開かれた宴会には山県勇三郎も顔を見せての大騒ぎの様子が描かれていますね。啄木の得意満面の顔が見えるようです。
初号での啄木とは、ひと言で言えば、「書きまくり」。
長文「初めて見たる小樽」の一挙掲載。小樽人には有名な、あの「小樽の人の歩くのは歩くのではない、突貫するのである」というフレーズが入った名文ですね。
無題の長詩、「浪とことはに新らしく…」。これも長いなぁ。日本海に臨む小樽の街だからこその「浪」の比喩。それが効いたカッコいい詩ですけどね。長いので、お配りした『小樽のかたみ抄』には収録しませんでした。
あと、「浦塩特信」。(これも長い!) これは、あれですね、東京かどこかの他社の新聞記事をパクって、あたかもウラジオストックから小樽日報社に外電が入って来たかのごとく装った記事ですね。弱小新聞ならではの反則技でしょうね。啄木自身も、ここまでやるか!といった思いがあったのでしょうか、日記に「新聞記者とは罪な業なるかな」なんて書いています。
以上3点は、『小樽のかたみ抄』には載せられませんでした。載せたのは、「藻しほ草(一)」と「片割月忍びの道行」です。
まず、「藻しほ草(一)」。
なんたって歌人・啄木ですから、小樽日報に来てもすかさず歌壇を起こすわけです。ただ、この回は創刊号の連載第一回なんですから、読者の短歌投稿なんてまだ集まっているはずがない。
どうするか?――啄木の答えは簡単明瞭です。「全部自分で書く」なんです。
私もここは長らく勘違いしていまして…
(函館)の「小高草影」ならば、この後の「藻しほ草」にも出てくるし、第三号では「夕暮」という詩も書いている。これはもう啄木の変名だろう…とは思っていたのですが、まさか、この第一回に掲載されている歌全部が啄木の作であるとは思いもしませんでしたね。
当時の日報社には野口雨情はじめ歌の心得のある人はいくらでもいただろうと思いますから、私は長らく、その手の社員が、寄せ書き風にワイワイ集まって「藻しほ草(一)」を作り上げたんだろうと思っていました。でも、ちがった。この「藻しほ草(一)」は全部啄木の作です。
岩波文庫の久保田正文編『新編啄木歌集』解説にも、そう書いてあります。いかにもプライドの高い啄木ならではの振る舞いではありますね。
そういう視点で、この「藻しほ草(一)」を読み返すとすごく面白い。天下の啄木が「蝦夷(あいぬ)に逢ひぬ」なんてくだらんギャグをやってるご愛敬はさておき。(今なら一発で差別詩人ですね…)
例えば、全道の主要都市を散りばめた投稿名のうち、(札幌)が「橘りう子」になっていたりしますね。こういうのも、全部が啄木の創作であると知った瞬間からは、そうですか!(札幌)は「橘」ですかぁ!と啄木ファンは喜んじゃうわけですよ。まだ、好きなんだぁ…と。
これは、もう、橘智恵子ですからね。函館の弥生尋常小学校の教員だった「鹿の子百合」橘智恵子。彼女の実家は、林檎栽培で財を成した札幌の有名なお金持ちです。
歌集『一握の砂』の「忘れがたき人人」でも、第(一)部で宮崎郁雨から小奴まで全員まとめて出演するのに対し、橘智恵子だけは特別に第(二)部を設け、そこで22首にも及ぶ歌を捧げるといった程の熱愛ぶりです。ほんとに、啄木にとってのマドンナだったんですねぇ。
それでは、もうひとつの作品「片割月忍びの道行」の方に移ります。
「片割月忍びの道行」は、なんて言ったらいいんでしょうか、ある種、明治の新聞の、ごく平凡な三面記事なんですが、片方では(啄木が初めて世に出した三面記事ということを私たちは知っているだけに)なにかしらそこに意味や味わいを読みとりたい…と、つい無駄な努力をしてみたくなるような作品ですね。
話はじつにあっけらかんとした話です。一昨日の夜九時頃、信香(のぶか)町から怪しい不倫カップルの男女が出てきたから、新聞記者・啄木がその後をつけてみましたよ…という話です。その男女は別に何の事件を起こすでもなく、花園町の家並みのあたりで消えました…という、なんともポカーンとした三面記事なんです。
この記事のどこが面白いのか?と聞かれても、今の人には説明しがたいものがありますね。現代の、この百倍もドギつい刺激的表現にどっぷり漬かっている私たちには、「夜の九時」に「男女」が…と読んだだけで胸がドキドキしてくるような明治の庶民の感覚はなかなかわかりにくいものです。
ただ、小樽に暮らす私たちには、別の意味で、この「片割月忍びの道行」を面白く読み解く方法がひとつあります。それは、明治40年10月13日の日録として読むやり方。例えば、こんな風に。
東洋院の角より曲がりて福原病院の坂を上りゆくに、……坂を下り坂を上りて住吉座の前……急足に交番前より公園通へ左に折れぬ。
「東洋院」だけは調べられなかったのですが、たぶん鍼灸院かなにかが開運町のあたりにあったのでしょう。そこの角を曲がって「福原病院の坂」と啄木は書いていますね。「福原病院」は現在の市立病院の場所にあった病院ですから、小樽の人なら、ああ今の市立病院と量徳小学校の間の坂を上がってきたんだな…とすぐわかります。
で、「坂を下り坂を上りて」ですか。市立病院のところに出てきたのなら、そこから「坂を下り」は、じゃあ、今の双葉高校〜双葉中学(旧住吉中学校)の前の坂ですね。そこを降りて行った。今の南樽生協あたりに出る。
今度は「坂を上り」ですから、もちろん量徳寺の前の坂ですね。量徳寺を過ぎ、安達先生の病院の前を通り過ぎ、そして「住吉座の前」なわけです。「住吉座」は昔松竹ボーリングがあった場所、今はマンションが建っているところですか。
で、花園町の「交番前」。そこを「左に折れ」て公園通りの方へ消えていったということは、今のた志満のあたりで見失ったのか、あるいは、啄木も家に帰りたいから、この辺で追跡を止めたのかなぁ…なんて思ったりしますね。
なんか変な読み方ですけれど、小樽の人たちは、こんな「小樽のかたみ」の楽しみ方もできるんですよと、ちょっぴりお国自慢です。
こういう読み方をも可能にする「小樽のかたみ」マップというものは、すでに存在します。それが、荒木茂先生の『小樽日報記者石川啄木地図』。
今日配布いたしました明治40年の小樽地図は、この荒木先生の著作から引用させていただいたものです。いろんな啄木文学マップを見てきましたが、この地図がいちばん使いやすいし、なにより勉強になる。
基本になっている地図が、明治40年6月小樽区役所調製の小樽区平面図というのがいいですね。信頼性があります。
駄目な小樽地図というのは、海岸線の部分が正確ではない場合がものすごく多い。あと、「南廓」の位置がいい加減なものと… まあ、時間がないので、次の「手宮駅員の自殺未遂」に行きます。
(次回「3.小樽のかたみのおもしろさ」は、11月3日発表予定)
配付資料
■「小樽のかたみ」抄 新谷保人編 (スワン社,2006)
■「小樽日報」「小樽新聞」明治40年10月24日・三面コピー(縮小)
■「北海タイムス」明治40年11月17日記事「怪美人の凄腕」
■荒木茂編著『小樽日報記者 石川啄木地図』(1990.4発行)
主な参考文献 (※すべて市立小樽図書館所蔵)
■マイクロフィルム「小樽新聞」明治40年10〜12月
■北海道樺太の新聞雑誌 □刀(くぬぎ)真一 (北海道新聞社,1985)
■星霜 北海道史1868―1945 (北海道新聞社,2002)
■啄木・釧路の七十六日 宮の内一平 (旭川出版社,1975)
■朝日新聞社史 明治編 (朝日新聞社,1990)
■回想の石川啄木 岩城之徳編 (八木書店,1967)
■二葉亭四迷の明治四十一年 関川夏央 (文春文庫,2003)
■石川啄木の「小樽日報」記事ノート 荒木茂 (北海道自動車短大研究紀要・第13号,1987)
■「小樽のかたみ」について(一) 荒木茂 (北海道自動車短大研究紀要・第13号,1987)
■小樽日報記者石川啄木地図 荒木茂 (北海道自動車短期大学,1990)