第94回 小樽啄木忌の集い 講演
「小樽のかたみ」のおもしろさ
第1回
新谷 保人
(スワン社/「おたる新報」編集長)
新聞に対する批評は概ね好評たり。
小樽新聞は我が三面を恐ると、さもあるべし。
(啄木 明治四十年丁未歳日誌/十月二十四日)
1.「小樽のかたみ」とは?
@小樽日報社
A三面主任
B明治四十年十二月十二日
C「小樽日報と予」
2.小樽日報と釧路新聞
@函館日日新聞〜北門新報
A小樽日報
B釧路新聞
C東京朝日新聞
3.「小樽のかたみ」のおもしろさ
@十月十五日・初号発刊
A「手宮駅員の自殺未遂」
B「昨日の初雪」
C「お嬢様派出所を狙ふ」
D「出没自在の美人」
E「天下一品怪美人の艶書」
F「雪の夜」
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1.「小樽のかたみ」とは?
「小樽のかたみ」とは、啄木が小樽で新聞記者をしていた明治40年の10月から12月にかけて、その新聞「小樽日報」に書いた自分の記事を切り抜き、一冊のスクラップ帳にまとめたものです。そこに、「小樽日報と予」という一文や、桜庭チカのカットなどを加え、啄木自身が「小樽のかたみ」と名付けました。現在は、函館市中央図書館・啄木文庫に保存されています。
私は、その函館の図書館に所蔵されている現物は見たことがありません。ついでに言えば、北大の附属図書館で保存されているという「小樽日報・第三号」も、実物は見たことがない。すべて、今回発表するテクストは、1970年の筑摩版全集と水口会長が所蔵しているコピー版「小樽日報・第三号」に拠っています。
@ 小樽日報社
最初に、簡単に啄木と小樽日報の関係を振り返ってみます。
啄木が、函館での起死回生を思い立って津軽海峡を渡ったのが、明治40年5月5日。今から99年前の「こどもの日」なんですね。来年が、啄木の北海道漂泊一年間からちょうど百年になります。今年は啄木生誕120年ということであれこれ記念の催しも行われていますが、北海道の人にとっては、来年の来道百年の方がいろいろな意味で感慨深いものがあります。
ただ、後世の私たちは、啄木が函館〜札幌〜小樽〜釧路の一年間を切り上げて東京へ帰っていったことをすでに知っていますから、無造作に「来道百年」の表現を使うわけですが、それはあまり正確ではない。この明治40年5月5日の啄木自身は、これから先の人生に北海道漂泊の一年間が待ち構えているとは全然思ってもいないわけです。函館の地で生活を立て直すことができたならば、あるいは、再度東京で勝負できるチャンスも来るかもしれない…くらいの気持ちだったかもしれません。
そういう意味では、本当に、啄木の北海道漂泊が始まるのは、私は、「函館大火」の起こった8月25日夜からではないかと思います。明治40年の函館大火。大火とともに街ができあがってきたと言っても過言ではないくらい、函館市の歴史は別名函館大火の歴史でもあるのですが、その中でも歴代一二を争うほどの規模の大火が、この明治40年の函館大火です。
啄木は日記で「学校も新聞社も皆やけぬ」と書いていますね。この「学校」とは、啄木が代用教員をやっていた函館市立弥生尋常小学校。そして、「新聞社」とは、啄木が遊軍記者としてかけ持ちで仕事をし始めていた函館日日新聞社のことです。青柳町の自宅こそ焼けなかったものの、生活基盤である働き口のすべてを大火で失ってしまった。これでは、もはや函館にいられない。
札幌行きの夜汽車に乗るのが9月13日。そして、16日には北門新報社に出社しています。「北門新報」は当時の北海道では大手の新聞です。そこで啄木は校正の仕事に就いていたらしい。
らしい…というような表現を使うのは、あまりこの時期の啄木の動きがはっきりしないからです。そして、同じ9月の27日には、もう啄木は北門新報社を辞して小樽へ移ってしまうわけで…
この、札幌の約三週間ばかりの慌ただしさというのは相当なものです。私にも謎がいっぱいあるのですが、今日の発表はそれを論じる場ではないので端折ります。(興味をお持ちの方は、去年の「小樽啄木会だより」に『東十六条』という駄文を書いたりしていますので読んでいただければ幸いです)
さて、小樽。啄木は、10月1日、小樽日報社社長・白石東泉(義郎)に会い、そのまま午後の編集会議に臨みます。野口雨情とともに三面を担当することが決定。家族と住む家も決まり、ついに同月15日には「小樽日報」創刊号が発刊される。
啄木は、函館日日新聞では遊軍記者、北門新報では校正子でした。勤めた期間も短く、それほど新聞記者としての腕をどうこう問える程のレベルにはありません。そういう意味では、啄木が全身全霊をかけて本チャンの新聞記者として関わった最初の新聞としての「小樽日報」の価値は大きいのです。しかも、その啄木の書いた新聞記事すべてが残っているとなれば、これはただ事ではない。
同年の12月12日、啄木は、事務長の小林寅吉に暴力を振るわれ、憤然として小樽日報社を退社します。「小樽のかたみ」は、いわば、この日報社退社後、無職・無収入状態になった啄木が小樽の家で苦し紛れに生み出した作品といえなくもないのですが、百年後の私たち小樽市民にとって、これ以上はない贈り物でしょう。
「小樽日報」の話題をもう少し続けます。
失業状態の啄木は、小樽の街で明治40年の暮れと翌41年の新年を迎えます。「釧路新聞」の職が決まり、単身赴任、釧路に向けて中央小樽駅を発つのが明治41年の1月19日。
昨年、小樽駅三角市場の入口のところに建てられた歌碑「子を負ひて/雪の吹き入る停車場に/われ見送りし妻の眉かな」の歌は、この1月19日の情景を詠ったものですね。
釧路では、約三ヶ月ばかり、啄木は釧路新聞の新聞記者として働きます。1月22日の出社から、4月5日に酒田川丸で釧路を脱出するまで、意外なことに、啄木はただの一日も欠勤することなく仕事を続けています。
3月後半、25日頃から、上司への不満やら、東京へ戻りたいといった気持ちが爆発して、ついに会社を休み始めるのですが、その3月25日までは、じつは啄木は皆勤賞なんです。新聞記者としての腕も確実に上がっていて、今読んでも記憶に鮮やかに残るような鋭い記事をいくつも書いています。
特に、啄木の小樽〜釧路時代については、世間で流布されている啄木イメージ(というか、もうほとんど都市伝説のような様相を帯びているもの…)があまりにも強烈なので、なかなか反証する術がないような状態なんですが、やはり、啄木の書いたものを詳細に読んで行くと、巷間伝えられている逸話には納得しがたい部分が多々出てきます。
東京(内地)の人たちの北海道に対する無知とか、逆に、北海道人たちの内地の人や社会に対する無知とかね。そういうものは事実に即して直されるべきだと思います。たとえ百年経っていても。
啄木の明治40〜41年北海道漂泊についても、誤解はかなりあります。例えば「赤貧と病苦の北海道漂泊一年間」といったような。まあ、「赤貧」はあたっているのかもしれないが…しかし、「病苦」などをこの明治40年の啄木に見るのは明らかにまちがいです。晩年の東京での啄木イメージとごっちゃになっている。
近代の私たちが、孤独の天才・啄木が北海道を放浪したのならば、やはり「赤貧と病苦」だろう…という想いを投影するから、そういう近代人がカッコいいと思う「啄木」が独り歩きし始めるのです。本当は、大森浜で海水浴をしていたり、友だちと豚汁で酒を呑んでいたりするような、健康人そのものの啄木・22歳なんですけれどね。
明治41年の4月5日に酒田川丸で釧路を脱出し、東京へ舞い戻った…というのも、よく読者が陥る誤解。
啄木はストレートに東京に戻ったのではありません。酒田川丸が向かったのは、じつは函館です。
啄木の函館は、じつは二回ある。そして、この二度目の函館の約一ヶ月は、この後、東京での晩年の啄木を決定づけるという意味で、とても重要な函館なんです。
例えば、『一握の砂』。この名作が世に残る名作となった由縁は、その独特の作歌スタイルと云えましょう。つまり、「回想する」という啄木独特のスタンス。生の、今体験している目の前の北海道を詠いあげるというのではない。啄木は、はるか北海道ではないどこかの空から北海道を「回想する」のです。もう善悪もない、正邪もない、憎しみも悲しみも忘れ果ててしまったような地平から「忘れがたき人人」を詠うのです。
この決定的な啄木オリジナルの萌芽が、すでにこの時期の日記には顕れてきているのです。この二度目の函館は、限りなく今私たちが知る「啄木」に近い何かが生まれ始めているという意味で、とても注目が集まる一ヶ月といえます。
そして、ここで、今一度「小樽日報」話題も登場してきます。それは、日記の4月18日。
啄木は、この函館一ヶ月の途中で、小樽にも一週間戻っているのです。小樽に残している妻子や祖母のこれからをどうするか話し合わなければなりませんから。
その時です。啄木日記はこう書いています。
「小樽日報今日より休刊、実は廃刊。不思議なるかな、自分は日報の生れる時小樽に来て今はしなくも其の死ぬのをも見た。」と。
小樽日報社、つぶれちゃったんですね。
日報の金主であった山形勇三郎、明治41年3月30日、当時の金で355万円という借金を残したまま、神戸から南米に向けて逃げ出してしまったのでした。
啄木が飛び出さなくても、翌41年4月には廃刊するような、実に短命の新聞ではあったのですね。
A 三面主任
山県勇三郎――九州の平戸出身。根室の柳田藤吉に目をかけられ、やがて独立して海産物仲買人に。
ただ同然で手に入れた国後島のニシン場でひと山あて、海運、鉱山経営などにも進出した北海道経済界の風雲児…
(北海道新聞社編「星霜・4」より)
別に小樽日報の山県勇三郎でなくっても、北門新報の金子元三郎でも誰でもいいんですが。当時の、明治の新聞の一大特徴というのが、このパトロンの存在でしょうね。ここが、今私たちが「新聞」と認識しているものとは決定的にちがう。
明治の新聞には、現在の私たちが新聞に対して抱いている「公正中立」とか「客観報道」という概念はありません。新聞記者は社会正義のために記事を書くのではないのです。記事は、金を出してくれるパトロンの意向に沿って書かれます。基本的には、パトロンに都合の良い政論新聞ですね。
だから、小樽日報の記者であった啄木は、政財界を牛耳りたい金主の山県勇三郎や道会議員であった社長白石東泉の意向に奉仕する記事を書くのがまず第一の仕事だったのです。で、なおかつ、新聞を売って儲ける。この点では、事務長だった小林寅吉も別に異論はないでしょう。同じ気持ちだったと思います。
ちなみに、啄木が札幌で勤めた北門新報社。この北門新報は、もともとは小樽の会社です。パトロンも、小樽の人なら誰でも知ってる金子元三郎。
18歳の時北海道・福山の漁業家金子元三郎の二代目となって小樽に移り住む。23歳で「北門新報」創刊。32歳で小樽区長。のち衆議院、貴族院議員として活躍する一方、定山渓鉄道などの会社を次々と興す。
([くぬぎ]真一著「北海道樺太の新聞雑誌」より)
紙面のスタイルは、大雑把に言えば、大(おお)新聞と小(こ)新聞に分けられます。あるいは、この両者の折衷型もありました。当時の北海道の二大メジャー紙「小樽新聞」「北海タイムス」なんかは、この折衷型ですね。
大新聞というのは、先ほど述べた天下国家を論じる政論紙です。小新聞は雑報紙。当時の社会事件からゴシップ記事までの読み物記事満載の、今で言えば女性週刊誌みたいな造りの新聞です。
折衷型の「小樽新聞」などを見てみますと、
○ 一面〜二面/政論・国内(国際)情報
○ 三面〜四面/連載小説・事件・芸能
○ 五面〜七面/広告
○ 八面 /雑報(経済情報・商況)
といった造りになっています。
啄木の「小樽日報」も、基本的な構成は「小樽新聞」に似ています。ただページ数が少ないだけで。ですから、編成は、
○ 一面〜二面/政論・国内(国際)情報
○ 二面〜三面/連載小説・事件・芸能
○ 四面 /広告・雑報(経済情報・商況)
といった造りになります。啄木は、この三面を担当していたのですね。野口雨情主任の下で。
当時のニューメディアである明治の新聞は、これまた当時の日本政治の一大課題でもあった「日露戦争」を追い風にして飛躍的にその発行部数を伸ばして行きます。日露の戦況や政論記事を書きまくって儲けて行きます。
日露が開戦したのが明治37年の2月。バルチック艦隊撃破が38年5月、ポーツマス会議が同年8月ですから、このあたりが明治の新聞のピークの時代といっていいでしょう。
戦争を書けば、片端から飛ぶように売れて行くわけですから、当然、人手も足りなくなる。多少の文筆の心得があれば誰でも参入できる、今で言えばインターネット関連業界に雑多な人材や欲望が集まってくるような状況が明治の新聞世界で起こっていたのです。
私は、啄木が新聞記者になったのは、自らの意志といったものではないと考えています。時代の流れが、しかるべき場所に啄木を導いたのではないかと思います。明治40年の北海道では、まだ間に合ったのだと。
日露戦争というのは、ある種、明治の国家意志の完成でもありました。本当に、乃木将軍から町のお店の丁稚小僧まで、ロシアに勝利するということにおいて揺るぎはないのですね。ロシアに勝たないことには、この国に先はないのだという一点では、国家の意思と国民の意思が見事にシンクロした最後の時代だったのです。明治という時代のピークでした。
この美しい(?)明治精神の完成に陰りがさしてくるのが明治39年です。
具体的には、日比谷暴動。ポーツマス会議の講和条件の、あまりの貧弱な内容(戦争償金の放棄、南樺太の割譲のみ)に怒った国民は、明治39年9月5日、日比谷公園の講和反対国民大会に集まります。その数、三万人。やがて、その群衆は暴徒化して行きます。条約賛成派と目されていた国民新聞社の焼き討ち。交番、市電への放火。軍隊が出動し、翌日には戒厳令がしかれます。
歴史的には、この日が、近代の都市民衆の誕生といわれています。国家の意思とは別の道を歩む、都市民衆という階層がついにその姿を現した瞬間でした。この都市民衆こそ、現代の私たちにもつながるルーツではないかと思います。
この日比谷暴動への戒厳令とともに発せられた緊急勅令によって、各新聞社も次々と発行停止処分をくらいました。三年後、啄木が働くことになる東京朝日新聞社(現在の朝日新聞の前身です)も15日間の停刊処分を受けていますね。
しかし、この発行停止処分があろうとなかろうと、旧来型の明治の新聞、特に都市部の新聞は時代の圧迫を受けていました。つまり、新聞が売れなくなってしまっていたのです。原因はもちろん日露戦争の終結。
日露戦争のバブルが弾けたわけです。もはや、新聞も、旧来型の天下国家を大いに論ずるようなスタイルでは全く新聞が売れないような状態に入り始めました。経費のかかる海外報道システム(海外特派員とか社専用の船舶とか)も、戦争が終わってしまっては、ただの経営を圧迫するだけの無用の長物になりつつありました。
そして片方では、日比谷暴動に象徴されるような都市大衆の台頭。明治政府の実行した学制改革によって急増しつつあった中等以上の教育を受けた人々の群れです。
この事態を打開しようとする試みが、すでに都市部では始まっています。例えば、東京朝日新聞が構想したのが「中(なか)新聞」化。
従来の大新聞〜小新聞の両方の要素を兼ね備えつつ、かつ、読者の知識欲を満足させる新聞。それが、東京朝日新聞が構想した「中新聞」でした。つまり、社会面と文芸面の充実。「報道新聞」化です。現在の私たちが「新聞」と認識している新聞スタイルが、このあたりの時代から始まるわけです。
東京朝日新聞は、明治38年8月には二葉亭四迷を大阪朝日新聞社から引き抜いたり、明治40年には夏目漱石を社員として迎えたりとか、いろいろな仕掛けをし始めていますね。
同じ明治40年には、古手の探訪員(新聞の記事種を集めてくる雇い人たち)の半分をバッサリ解雇して、代わりに、東大・早大出の若手を官庁・警察などに配置したりする、現在で言えば「記者クラブ」のような試みもこの時期から始まっていますね。ここからは、どんどん、現在の私たちが「新聞」と考える報道新聞の形に近づいてくるわけです。
この波は、いずれ数年後には北海道にもやってきます。(前章でお話しした小樽日報の明治41年廃刊も、山県勇三郎がどうだこうだという論議をするよりは、こういう時代の流れの中で捉えた方がより正確なのかもしれませんね…)
ただ、啄木が北海道を漂泊していた明治40年の一年間では、このニューウェーブは、まだはっきりした形をとって北海道には上陸してはいませんでした。
少しだけ(一年間くらい?)、東京などの内地とは時差があって、私などは、この時差のおかげで啄木の北海道漂泊の一年間は可能になったのではないかとさえ思ってしまいます。つまり、「明治の新聞」の最終段階である「小樽日報」「釧路新聞」にぎりぎり間に合ったと。
啄木という人は、近代日本の新聞史上の中でも、かなり重要な位置を占める人ではないかと私は感じています。なんといっても、「小樽日報」、「釧路新聞」、そして最後は「東京朝日新聞」なのです。
その短い人生の中で、いわば、明治の新聞の終わりと近代新聞の誕生の間の時間を足早に駆け抜けた文学者として、漱石や二葉亭とともに、もっと考察されなければいけない人なのではないでしょうか。
B 明治四十年十二月十二日 <省略>
C 「小樽日報と予」 <省略>
(次回「2.小樽日報と釧路新聞」は、10月15日発表予定)
配付資料
■「小樽のかたみ」抄 新谷保人編 (スワン社,2006)
■「小樽日報」「小樽新聞」明治40年10月24日・三面コピー(縮小)
■「北海タイムス」明治40年11月17日記事「怪美人の凄腕」
■荒木茂編著『小樽日報記者 石川啄木地図』(1990.4発行)
主な参考文献 (※すべて市立小樽図書館所蔵)
■マイクロフィルム「小樽新聞」明治40年10〜12月
■北海道樺太の新聞雑誌 □刀(くぬぎ)真一 (北海道新聞社,1985)
■星霜 北海道史1868―1945 (北海道新聞社,2002)
■啄木・釧路の七十六日 宮の内一平 (旭川出版社,1975)
■朝日新聞社史 明治編 (朝日新聞社,1990)
■回想の石川啄木 岩城之徳編 (八木書店,1967)
■二葉亭四迷の明治四十一年 関川夏央 (文春文庫,2003)
■石川啄木の「小樽日報」記事ノート 荒木茂 (北海道自動車短大研究紀要・第13号,1987)
■「小樽のかたみ」について(一) 荒木茂 (北海道自動車短大研究紀要・第13号,1987)
■小樽日報記者石川啄木地図 荒木茂 (北海道自動車短期大学,1990)