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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



一月の小樽 (二)
 

 平成25年1月19日、大鵬死去。ご冥福を祈ります。

 相撲にはそれほどの興味はないけれど、なんとなく新聞記事を切り抜いてしまった。(「こまどり姉妹」とか「大鵬」とかに弱いんです…) 「巨星落つ―」。第一報の書き出し。以降、「昭和のヒーロー」、「高度成長を体現」、「不世出の大横綱」…といったステレオタイプの記事が続いていたのだけど、十日後の小樽後志欄に載ったコラム記事には、ちょっと「ほおーっ」と唸ってしまった。

 大鵬の活躍父に届かず
 昭和の大横綱大鵬が亡くなった。サハリン(樺太)のユジノサハリンスク支局に駐在していた1995年夏、よく取材に訪れていた地元の博物館で、副館長がふともらした。
 「博物館の横の小屋に横綱・大鵬のお父さんが晩年暮らして、守衛をしていたのです」。小屋は粗末なもので、取材当時は倉庫に使われていた。その時まで大鵬が南樺太出身で、終戦時の混乱の中、ウクライナ人の父親と生き別れになっていたことは知らなかった。
(北海道新聞 2013年1月29日)

 私が「へえーっ」と思ったのは、この次のセンテンスです。(道新の記者なのに、大鵬がロシア人とのハーフであること知らないなんて、ちょっと勉強不足だとは思ったけれど。あの顔立ちとか身体を見れば一目瞭然でしょうが…)

 大鵬自身は、旧ソ連軍の南樺太侵攻後の1945年8月20日、疎開船小笠原丸で母親らと大泊(コルサコフ)を脱出。一家は稚内で途中下船し、小笠原丸は同22日、小樽へ向かう途中に旧ソ連潜水艦の攻撃で撃沈された。

 そうなんだ。大鵬も「小笠原丸」だったのか!

 大泊行きの汽車を待っている間、あまりの混雑で私一人がはぐれてしまった。汽車は動き出し、警防団の人が私を抱えながら、大声で叫んだ。「この子は、誰の子だ?」
 母が「私の子です」と叫んで、貨車の中に放り投げられた。
 艦砲射撃の音が鳴り響く中、汽車は積み荷が重くて坂を上れなかったり、止まっては壊された線路を直したりで、二昼夜もかかった。あふれ返るほどの避難民を乗せた引き揚げ船は宗谷海峡を渡って稚内に到着した。
 母の実家が小樽の近くだったので、このまま乗っていけといわれたが、母は船はもうこりごりだと、それを断わって稚内で下船した。しかし、小樽に向かったこの船が途中の留萌沖で撃沈された。
(大鵬「一流とは何か」)

 ほんとだ。小笠原丸だ。小笠原丸とは、こういう船です。
 http://www3.ocn.ne.jp/~swan2001/swanindex10081.html
 先ほどの新聞記事は、こんな風に結びます。(ちょっと、しんみり…)

 サハリンでは夕方になると日本のラジオ中継がよく聞こえる。自分の息子が日本のヒーローになったことを父親が知っていたならば、ラジオに耳傾けていたはずだが、父はそれを知らなかったという。

 さらに、このコラム記事には後日談もありました。長くなるけれど、私のHP記事の補強にもなるので引用させてください。

 大鵬乗った船 樺太で見送る
 小樽・小沢さん 記事で知る
 1945年8月の終戦直後、先月亡くなった元横綱大鵬の故納谷幸喜さんが、樺太(サハリン)から道内へ疎開する際に乗った船を、現地で見送った元陸軍兵士が小樽にいる。同市花園4、小沢哲雄さん(86)で「大泊(コルサコフ)港が大混乱したのを今も覚えている。まさかあの中に大鵬親子がいたとは」と感慨深げだ。
 小沢さんは、当時日本領だった南樺太の栄浜出身。戦前に旧制小樽市中学(現長橋中)を卒業、故郷に戻った後、終戦2ヵ月前の45年6月に召集され、大泊の陸軍部隊に配属となった。南樺太でも8月9日に旧ソ連軍の攻撃が始まり、樺太庁は女性や子どもらの緊急疎開を決定。小沢さんは、南樺太全域から集まった避難民を道内へ向かう疎開船に誘導、乗船させる役割だった。
 避難する人々の中に納谷さん親子がいたことを、小沢さんは1月29日の北海道新聞小樽後志版のコラム欄で知った。「当時、大泊港では避難民が長蛇の列をつくっていた。土砂降りの雨で、絶望のあまり、海に身投げする人や子どもの泣き声、乗船を求める人々の怒号が渦巻いていた」
 疎開船の1隻で、8月20日深夜に出港した小笠原丸に、納谷さん親子が乗り込んでいた。納谷さんは母親が体調不良を訴えて、稚内で途中下船。船はその後、小樽へと向かう途中、22日に増毛沖で旧ソ連潜水艦の攻撃を受けて撃沈され、600人以上の乗船者が犠牲になった。納谷さんが乗船していれば、大横綱は誕生していなかったかもしれない。
 小沢さん自身も、旧ソ連軍が樺太全島を占領後、シベリアヘ5年間抑留され、栄養失調で死線をさまよい、足の小指を凍傷で失った。小沢さんは「あの小笠原丸に大鵬親子が乗っていたことを知り、大変驚いた。自分の人生も含めて戦争の残酷さと人の運命をあらためて思う」と話している。(相原秀起)
(北海道新聞 2013年2月8日)