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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



十一月の小樽 (一)
 
 

 健一の徒弟奉公は、思いのほか早く終わることになる。1927(昭和2)年の末、店主の弟でともに働いていた中野俊彦のもとに、小樽の映画館・松竹座から、専属契約の話が持ち込まれる。俊彦に請われて、健一もまた小樽に移ることになった。そしてこれを機に、健一も職人として月5円の給料を得るようになったのである。
(鎌田亨「栗谷川健一―北海道をデザインした男」)

 いや、知らなかった。栗谷川健一と小樽の縁って、あったんですね。

 小樽での顧客は1館だけということもあって、札幌時代に比べて時間的に恵まれていた。さらに月給をもらうようになって、金銭的にも余裕が生じた。10代半ばの健一にとっては、まさに青春を謳歌した時代といえるだろう。この時期には、小樽の看板作家たちが立ち上げた新光美術協会という団体にも参加している。その中心となったのは、当時東京から戻って小樽の映画館・電気館の専属となっていた板橋義夫であった。

 出た、電気館! ばりばりの小樽じゃん。

 その後、函館の松竹座より専属契約の話が持ち込まれ、一躍函館へ。中野看板店で徒弟として修業をはじめてから6年目。栗谷川健一、二十歳の年の独り立ちでした。そして、ここでも、小樽がらみの逸話が語られています。

 1933(昭和8)年の4月、健一は突然、特別高等警察に逮捕され拘留される。この年の2月に東京では、小説『蟹工船』の作者として知られる小樽ゆかりのプロレタリア文学者・小林多喜二が、取り調べ中に虐殺されるという事件が起きた。
 左翼プロレタリア系の文化団体と関わりを持っていた旧知の板橋義夫から、以前よりその活動への参加をうながされていた健一は、一報に触れて義憤を感じ、事件に抗議するポスターを作って函館市内に貼り出した。このことが、逮捕へとつながったわけである。20日間の拘留ののちに釈放されたが、その後も1945(昭和20)年の終戦まで毎月、彼のもとには特別高等警察の職員が訪れ、消息を確認したという。

 へえーっ。こういう側面、栗谷川の作品から感じたことはないから、ひどく吃驚です。しかも、「事件に抗議するポスター」ってのが凄いやね。「ポスター」、現存しているものなら、ぜひ見たい。
 
 
 栗谷川健一の名を知らなくても、このポスターを見れば、道民なら誰でも知っている。彼の絵(ポスター)を目にしたことがない人なんていないだろう、北海道には。
 今年の三月に出版された北海道立近代美術館編のミュージアム新書。巻頭からの41枚のポスターに度肝を抜かれてしまいました。ああ、この「札幌」なら、帰りたい!と。
 札幌駅西口地下街入口の階段にかかっていた「きたぐにの詩」の写真には涙が出ました。入口前の本郷新「牧歌」の脇を通って、横に「きたぐにの詩」を見ながら階段を降りていったんだった。札幌駅を「サツエキ」などと呼ぶ田舎者が溢れかえる街になってからというもの、次第に足は札幌から遠のき今の田舎暮らしに至るのですが、なんか、そんな時にこの本が届くのは切ないなぁ。(ま、ぐちぐち言ってても、しょうがないか… 帰らんものは帰らん。)

 本に、もうひとつ面白い逸話があったのでご紹介。なんと、松本清張!

「真赤な入日を背景に亭々と伸びるポプラ並木、サイロをうしろに苅りとったワラをうず高く馬車に積み、その上で長柄のフォークを揮う逞しい農夫、輝く大雪山の雄大な石狩平野、精霊を秘めたような摩周湖、どれ一つとして秀作ならざるはなかった。われわれは口惜しいあまりに、『北海道に住んでいるのでトクをしているのさ』と悪口を言ったものだが、それは技の及ばざる者の声である」
(松本清張「わが『敵』 K.Kuriyagawa」)

 松本清張、作家になる前は、朝日新聞西部本社広告部でポスター原画の制作などもしていたんですね。松本清張のポスターってのも、ちょっと見てみたいな。