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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



八月の札幌 (二)
 
 

 飯島久彦は、今日も午前四時に目を覚ました。
 道央の街は、生まれ育った十勝より二十分近く日の出が遅い。うっすらと焼け始めた東の空が、住宅街の輪郭を埋まらないパズルのように黒く浮かび上がらせている。カラスもこない時間帯。静かだった。あまりに静かで、この景色を見ているみじめささえ忘れてしまいそうになる。
(桜木紫乃「スクラップ・ロード」)

 飯島久彦。四時に目覚めるようになってから、一年。三月に大洋銀行を退職してから五ヶ月が過ぎている。再就職はまだできていない。

 暗いうちから起き出して働く母親を見て育った。母はひとりで牛飼いをしている。久彦は、年末にかけた電話を思い出した。
 「正月は仕事が忙しくて帰れそうにないんだ。ごめん」
 「仕事だら仕方ないっしょ。母さんのことは大丈夫だから。ヘルパーさんもいい人でさ、こっちのことはなんも心配することないから」
 「春には、一度帰るよ」
 「うん、待っとるわ」
連絡をしないまま夏になった。ときどき留守電に母の声が入っているけれど、最近は聞かずに消去している。

  ↓

 あの白いトラックは、まだこのあたりで粗大ゴミをあさっているのだろうか――。
 初めてトラックを見たのは一年前だった。明け方まで飲み、ススキノからタクシーで帰宅した日。お盆明けの、職場の仕切り直しだった。河岸を変える途中で取引先の社長と会って合流した。さんざん飲んだあと、アイメイクのきつい女があふれる店に流れ、目玉が飛び出るような支払いを済ませてタクシーを拾った。片手にエビアンのペットボトルがあったのがいけなかった。空いたペットボトルを捨てたくて、運転手に「そこでいい」と言った。そして、あの男を見た。
 粗大ゴミをあさりにやってきた、白い違法トラック。運転席から現れた男が、母と自分を捨てて失踪した父に似ていた。仕事を辞めるまでのあいだに二度、トラックと男を見た。疑いは確信に変わっていった。

  ↓

 「女房子供から逃げて、今は廃品回収か。たいしたもんだな!」

  ↓

 見上げる久彦を気にも留めない様子で、文彦が運転席に戻りエンジンがうなった。もともと無口な父だった。父親らしい言葉などほとんど記憶にない。黙々と働くだけの男。親が遺した土地や財産が目減りすることに耐えられない小心者。
女が助手席のドアを開いて言った。
 「乗るのか乗らないのか、はっきりしな」
 年齢は久彦とさほど変わらないように見えるが、声はまるで老婆だった。

 いやー、見事な展開ですね。「道央の街は、生まれ育った十勝より二十分近く日の出が遅い」から「乗るのか乗らないのか、はっきりしな」まで、ここまで流れるように攻撃を仕掛けられると、防御しきれない。開始2分でゴール決められてしまうコンサドーレみたい。久彦は、もちろん、女が開けた助手席からトラックに飛び乗りましたです。

 攻撃が加速。ちょっと呻るような大技が出てきます。

「ごみ回廊」撤去始まる 発覚7年、行政代執行 札幌・清田
 札幌市清田区の民有地に古物商の男性(60)が約五百五十トンの産業廃棄物を放置している問題で、市は六日午前、廃棄物処理法に基づく行政代執行を開始し、産廃の撤去を始めた。行政代執行による産廃の撤去は、札幌市では初めて。市が不法投棄を把握してから七年。通称「ごみ回廊」と呼ばれた廃棄物が、ついに撤去されることになった。
 廃棄物は南北約三百二十メートル、東西約五十メートルの「ト」の字形に、高さ二メートルほどの廃車や古タイヤ、廃家電などが山積みにされている。
 市はパトロールで不法投棄を発見した二○○○年から、男性に撤去するよう指導してきたが、男性は「産廃ではなく、有価物」と主張。撤去命令にも応じなかったため、強制撤去を決めた。
(北海道新聞 2007年11月6日)

 久彦を乗せたトラックが戻っていった「スクラップ・ロード」。これ、実際にあった事件にヒントを得ているのですね。へぇ、これを、ここで使うのか…と、ちょっと感心しました。ゴミロードに、不可思議な女「沢田美奈」だし。技、冴えわたっています。

 結末まで書かなくても、いいかな… こういう見事な試合展開に、野暮な解説、不要ですね。(物語の始まりとエンディングに「午前四時」と「母の電話」をお洒落に配置してあるので、「母の電話」だけちょっと引用しておきます。)

 アパートに辿り着き熱いシャワーを浴びてバナナを一本食べているところで、携帯が鳴った。時計を見た。母が朝の給餌を終えて牛舎から戻る時間だった。躊躇しながら、通話ボタンを押す。久彦の声を聞いて、電話をかけた母のほうが驚いていた。
 「忙しかったのかい」
 「俺ね、春に銀行辞めたんだわ。ちょっと体調崩してた」
 思いのほか力強い声で母が言った。
 「こっちに、帰ってくるかい」
 「いや、仕事探してるから、大丈夫だ」
 「体を壊すような仕事はいけないっしょ」
 大丈夫だと何度も言って、ようやく「がんばれ」というひとことが聞けた。
 「母さんのことなら心配いらんから。お前がやりたいことやったらいい。ちっちゃいころからいっつも無理して、そのうち無理が癖になってたもんねえ。なんかお前を見ていると、こっちはいつも胸んとこがざわざわしてしかたなかった。男だらいろいろあると思うけども、あんまり深く考えないことだよ。身の丈越えれば、足もとがおろそかになるから」
 「俺のことは、大丈夫だから」
 「そんなになんべんも言ったら、親ってのは余計に心配するもんだ」