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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



八月の小樽 (三)
 
 

 ――あれは、石狩湾の銭函というヘンな名前の海水浴場で、遠浅の海底がところどころ唐突にえぐられている油断のならない海岸だった。おとなたちの目が離れたほんの一、二分の間だった。私と妹は深さが胸のあたりの所で、ひとつの浮き輪を交代しながら遊んでいた。浮き輪を妹に渡した時、足もとの砂が突然へこみ、私は海にのみこまれた。今まで目の下にみていた波の表が、あっというまに頭上の遠い所で波の裏側になっていた。海は手足をばたばたさせてもがく小さな子どもをあざ笑うかのように、たぷたぷと音をたててうねりつづけていた。大波小波の起伏のあいまに瞬時、妹の笑顔や浜の風景が上も下もわからない形でみえかくれするのだが、また次の波にのまれると私は、まるでラムネびんの中のビー玉のようになって、一面緑の世界をころがりつづけていた。たくさんの水をのみ、耳と鼻に切りさかれるような激痛がつづき、キーンと音をたてて遠ざかる意識――気がついたら砂の浜辺にねかされていた。ほんの数十秒のできごとだったのだろうが、私を生涯海から遠ざけるに十分な恐怖だった――。
(いせひでこ「七つめの絵の具)

 「絵描きが、絵のない本を初めて出すことになった」(あとがき)と、いせひでこさんは謙遜するが、じつは、いせひでこさんは文章もうまい。なぜ書かなければならないか、何を書かなければならないかがはっきりしているからだろう。そうでない人に、「ルリユールおじさん」や「にいさん」はつくれない。時々、私の頭の中の図書館で見かけたりします。

 2012年、図書館に来る人がめっきりと減りました。土曜、日曜でさえ、時として館内に誰もいないような光景が出現したりします。
 図書購入費が減ったから? 子どもに人気のお姉さん職員が人事異動したから? 私が年とって現代図書館について行けなくなったから? フィルターが強力になって完全にゲームができなくなったから? あれこれ考え続けているのですが、なかなか答えがでない。ただ、以前には目にしたこともないような光景を見かけることも最近は多くなりました。
 そのお母さんは、去年までは、子どもを連れて図書館に来ていました。子どもの大好きな本、自分が週末に読む本をとりまとめて借りて行く。図書館は無料で、思春期を迎えた子どもでもそれほど抵抗なく親と一緒に来られる場所なんです。そんな家族がいっぱいいました。今年の初めまでは。
 この前、久しぶりにそのお母さんが顔を見せて(子どもと図書館で待ち合わせらしい…)様子を見ていたのですが、お母さんは雑誌の棚をパッパッと見て、それから図書館前のベンチに座って、そしてスマートフォンを取りだしてからは、子どもが来るまでの一時間弱、ずーっとずーっとスマートフォンに夢中だったのです。ただの一度も図書館の中に入って来ませんでした。子どもが来たら、さっさと帰っていきました。もちろん、子どもの手に本はありません。

 五歳の私は、言葉、形にできないものでできていた。
 長田さんの本を読んでいると、言語化できなかった五歳の風景がいつも立ち現れてくる。函館公園の中の、エンタシスの柱のある図書館の階段とわきのハルニレの大樹が遊び場だった時代。言葉以外のことばで生きていた時代。「本持つ人、本読む人を見かけると、その街の光景がなぜかとても親しいものに感じられます」「駅のキオスクに詩の雑誌があるようなワルシャワという街に、ささやかな敬意を表して」と書く詩人は、廃嘘から、悲惨から、そこにはない一本の木から、生まれる未だ見ぬ新しい風景を描き出す。人は描かれたことの行間を埋める物語を、生涯にいくつもてるのだろう。
 どんな季節に行っても、パリの人々も本を読んでいる。公園、メトロ、カフェ、本屋。
 帰国すると、私の国の人々はケイタイを耳に当てて宙に向かって笑ったり怒鳴ったりして歩行していた。

 いせさんがこの文章を書いた時、2008年。「携帯」という漢字も書けない日本人がケータイをいじっている姿が哀れでした。スマホは、なにか、その哀れさとはちがうように感じています。スティーブ・ジョブスがスマートフォンやi-Padを使っている姿はかっこいいのに、電車の中でスマホを見ている日本人の姿はとても間抜け。ワンルームの自宅でだらしなくくつろいでいるはずの人間が、今、目の前の座席に座っている。横断歩道で突然立ち止まったりする。
 情報の集め方もかなり変わってきているんだと思う。考える前に、まずスマホに「聞く」。すると、どこかから誰かが「答えて」くれる。考えない。学校の先生が教材集めをスマホでやる。そうしないと、クラスのいじめやモンスター親に対応する時間がつくれない。高校生がケータイで「読める」程度の小説しか読まない。「聴ける」程度の音が私たちの音楽。みんなと同じがいい。普通がいい。昔、ブラッドベリが、そして今、バチガルピが描いた世界に私は到着したのかもしれない。

 さて。(残された時間はそんなにないが、さて…)