Welcome to SWAN 2001 Homepage


 
 
かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



八月の小樽 (四)
 
 

 今年、平成24年度の後志文学散歩は「余市」です。新幹線ルートから外れたため、今から急速な変貌が予想されます。私たちが知っている「余市」を記憶にとどめるためにも…という想いで「余市をめぐるバスの旅」を計画しました。その資料づくり。

 私は中学校へ入った始め、同村出身の小林北一郎が母と二人緑町に暮していた家に同居し、その次に姉と自炊生活をしていたが、その中学校の三年生になった時から、隣りの塩谷村の自家から汽車で通学しはじめた。塩谷村は、その中学校と反対側の函館行きの汽車の次の駅になり、この町から二里ほど離れていた。私たちの通学列軍は、小樽市から三つ目の余市町から出て、蘭島村、塩谷村を通り、小樽市の中央停車場へ着くのである。
(伊藤整「若い詩人の肖像」)

 余市の人脈を語るには伊藤整の「若い詩人の肖像」が便利というのは、この「スワン社資料室」をやってきたなりの経験則です。ひとつには、伊藤整の家が塩谷にあり函館本線利用者であったこと。街場の人ではないので、余市とは滅法親しい。もうひとつの理由としては、「若い詩人の肖像」というのは伊藤整が52歳の時に書かれた小説だということが大きい。成功した人、名を成した人がもう伊藤整にははっきりしているわけで、それについて都合よく記憶を動員するだけで小説がひとつ書けちゃう。ラクな仕事なんですね。

 そのうちに、私は、その商業学校の生徒が、私たちの中学校の坂の下にある小林というちょっと大きな菓子屋兼パン製造工場から出て来ることに気がついた。あのパン屋の息子だな、と私は考えた。その蒼白い細面の商業学校生徒は、広い街上を一面に群れてやって来る中学生たちの真中をさかのぼって歩きながら、いつも何となくナマイキな顔をしていた。

 はい、小林多喜二。

 私が、汽車で通学しはじめた中学三年の時、一番遠い余市町から、鈴木重道という五年生の級長が一緒に通うようになった。鈴木重道は、もうすっかり大人で、下級生の私たちを監督し、指導するような態度をし、しかもどことなく暖かな人柄であったので、私はずいぶん人見知りするタチであったのに、忽ち彼の部下のようにされてしまった。

 はい、北見恂吉。「しばしば私たちは、鈴木の家である余市町の大きな神社の社務所へ行って泊ったり、海水浴をしたりして、絶えず一緒にいるようになった」なんて書いていますね。北見恂吉は余市神社の跡取りでした。

 少女たち、そうだ、その通学列車で一緒だった女学生たちのことを書かねばならない。

 はい、ここで、左川ちか。この後に紹介する川崎昇の妹です。本名、川崎愛。「愛」と書いて、「ちか」と読ませるらしい。「少女たち」の章は、このように続きます。

 その少女たちは、この北国の田舎では、中位以上の生活をしている家族の娘たちだった。たとえば私の村の小学校では、五十人の中で三人ぐらいの少女たちだけが持つことの出来た高等女学校へ入るという幸運を彼女等は持っていたのである。あとの四十何人の少女たちは、女中になり、漁場の傭女になり、小樽の酒場の女給やソバ屋(銘酒屋)の売女になり、女工になり、または自家で畑を耕した。汽車で通学している少女たちは、それぞれの学校の徽章になる白や黒の筋を何本か裾に入れたカシミヤの袴をはき、本を入れた包みを胸に抱くようにして、選ばれた女性という意識から、皆少し澄ましたり気取ったりしていた。その髪は、たいていお下げにして背中に垂れていた。洋装の制服が使われはじめた頃で、三分の一ほどは、紺サージの制服を着て、黒い靴下に包んだフクラハギを見せて歩いた。その黒い靴下に包まれたフクラハギは、細いのも太いのもあったが、私の目にはそれぞれ刺戟的であり、また特定の三四人の少女の脛は、太すぎも細すぎもせず、それ等が私の目の前を通りすぎる時には、うっとりするような後めたい想像を私の中に呼び起した。

 「その髪は…」以降の引用は冗漫かな…とも思ったんですが、老人の好色な感じがよく出ているので続けて引用しました(笑) 小樽の「ソバ屋」については以前書いています。
http://www3.ocn.ne.jp/~swan2001/swanindex11102.html
(まあ、バスの中では、こういうエッチな話はしませんが…)

 私が川崎昇を知ったのは、私が高等商業学校に入って一年経った頃、その汽車の中でであった。彼は余市町の林檎園の息子で、小樽の貯金局に勤めていた。彼は私より二つ年上であったが、私ははじめ彼を五つほど年上だと思っていた。

 で、川崎昇。川崎昇といえば、あの、有名な逸話「公園通りでの高商石鹸売り」ですね。

 私は工場に近い官舎に西田教授を訪ねた。坊主頭で鼻の下にチョビ髭を生やした丸顔の西田教授が簡単に印を押してくれた紙切れを持って行って、私は川崎昇と二人で作った金で石鹸の大箱を買い、荷車を借りてそれを公園通りの夜店の場所まで運んだ。道路に置くことも出来ないので、その場所の後ろに当る店にたのみ、店の片隅へそれを置いてもらった。

 この後、ブゴッペ洞窟の線刻画をめぐって違星北斗と大論争をすることになる西田教授まで登場して、ほんとに「若い詩人の肖像」は便利な本ですね。(ま、それだけ人間関係が小さな世界、「幽鬼の街」ってことなんですが…)

 午後八時まで暗くならない北国の夏のその繁華街は夕方に人が出盛った。坊主頭の川崎昇は、袴の結び目に手をあて、その貧弱な商品を前にして立っていた。突然私は、彼が大きな声で通行人たちに向って喋り出すのを聞いた。
 「皆さん、高商の石鹸をお使い下さい。品質は、他のどんな石鹸にも負けないものであり、学校直営の工場で学生の手で作ったものであります」。私は恥かしさのあまり、出来るだけ小さく身を屈めた。そのまま縮んで、人の目に見えない小さな一寸法師か何かになりたいと思った。しかし川崎昇は片手を袴の結び目にあて、また大声で通行人に呼びかけた。
 「皆さん、高商の石鹸をお使い下さい……」
 私は大変恥かしかったが、このとき、本当に川崎昇を尊敬した。何という男だろう。本当に売る気だ。そして更に驚いたことには、本当に買手が寄って来たのだった。一人が来ると、次々と買手が続いた。私は金を受けとり、小銭を隣りの露店のオカミさんに借りて釣を返し、また受取った。この町では学校の石鹸は有名で、その品質のいいことは誰でも知っていた。石鹸はよく売れ、右隣りや左隣りの露店より、私たちの店の方が繁昌した。

 この時の情景を、川崎昇自身が歌にしています。今回「余市」資料を漁っていて、武井静夫先生の「後志歌人伝」(海鳴詩社)の中に見つけました。

  露店小情
   ――友と二人夜の公園通にて石鹸及花を商ふて――
日くれより涼みに出でし人の波夜の巷に花売る吾等
こころはづみたまさか出づるざれ言の好まぬ人に聞かれぬるかも
ここにいでて幾日経にけむ声あげて説明をする吾となりたり

 さて、どうでしょうね。伊藤整は「若い詩人の肖像」の中で、「私は彼の人柄を敬愛していたが、その時の私の詩的感覚から言って、その「青空」に載っている多数の短歌は、うまいとはどうしても考えることが出来なかった」と言ってますね。
 ま、52歳になって、人生の勝ち負けがはっきりした(私は、日本ペンクラブ会長になることが文学上の「勝ち」だとは決して思わないが…)時点から、昔の勝ち負けを云うのは、なんか下品だなとは思いましたけどね。(そういう私も、「後志歌人伝」の中で最も興味を持ったのは、もちろん川崎昇などではなく、余市の「三浦勇」でしたからあまり人のことは言えません。)