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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



八月の小樽 (二)
 
 

 昭和52年8月7日、有珠山噴火。

 これらの火山の中で、最も鉄道と深い関係にあったのが有珠山で、昭和以降、この火山は昭和19年(1944)、昭和52年(1977)、平成12年(2000)に噴火している。(中略)
 昭和52年8月7日の噴火では、火口から約3qの範囲に大量の降灰などがあり、その後、断続的な噴火活動や火山性地震が繰り返された。爆発と同時に原子雲を思わせる噴煙が上がり、その高さは1万2千mにも達した。
 胆振線は激しい降灰により一部区間で約一ヵ月間運転を休止した。この間に運休した列車は270本、応急作業員は延べ1500名に達した。この噴火による二次泥流で2名が死亡、1名が行方不明となったほか、市街地、耕作地、山林にも甚大な被害が及んだ。
(太田幸夫「北の保線」)

 ちょうどこの時、この土地を旅行していた叔父さん一家が、車の屋根をボコボコにして札幌に引き返してきたことを思い出す。ほんとに酷い有様だった。
 ただ、昭和52年の有珠山噴火、太田さんは保線の立場から書くので、どうしてもこういう書き方になるのでしょうが、同じ国鉄でも少し異なった意見もあったのでご紹介します。

胆振線一部不通 目立った混乱なし
倶知安への乗客が大半
【倶知安】 国鉄胆振線は、有珠山噴火による降灰のため、七日以来一部区聞で不通になり急行いぶりなどの運休が統いているが、後志管内の利用者にはほとんど影響は出てなく、乗客数にもそれほど変化はない。これは、管内の利用者の大部分が倶知安への通勤、通学客で、室蘭方面への旅行者はほとんどいなかったため、たまたまお盆と重なったことから帰省客の足がやや乱れたほかは混乱もなく倶知安駅などの関係者をほっとさせている。
 同線は七目から新大滝−伊達紋別間が不通になっていたか、十五日から新大滝−久保内間が開通、十八日現在、久保内−伊達紋別間17.1キロが不通になっている。このため急行いぶりが上下ニ本とも運休になっているほか、倶知安発伊達紋別行きの普通列車四本も久保内で折り返し運転をしている。
 しかし、これによる影響はほとんどない。もともと同線の昔通列車は喜茂別、京極方面から倶知安への典型的な通勤、通学列車だったためで、倶知安駅の話では「乗降客の数も平常とあまりかわらない」という。
(北海道新聞 昭和52年8月20日 後志版)

 うーん、どうなんでしょうね。今年の7月、白老町で「文芸作品を走る胆振線」という講演を行いました。そこで話したことは、胆振線という鉄道は、端的に言えば、脇方鉱山から出た鉄鉱石を一刻でも早く鉄の街・室蘭に運び込みたい軍事鉄道という局面をその出自から色濃く持った鉄道だということです。少なくとも、敗戦の昭和20年8月15日までは。そして、根室や稚内に北海道の鉄道網がとどいていない時代にすでに鉄道があって当たり前だった倶知安や京極の土地と、戦争の真っ最中にぱたぱたと線路が敷かれた伊達や室蘭側では、胆振線の受けとめ方に温度差があることも付け加えました。

 ま、いいか… 数ヶ月間「スワン社資料室」を吹っ飛ばして、講演内容(見た目には軽い内容なんですけど…)に没頭していたので、その後も後遺症に悩まされていたんです。何書いても「胆振線」話になってしまう。最近ようやく、このスランプから抜け出せそうな気配になってきました。ちょっとした刺激で。それは、例えば、これです。
 
 
 おおーっ、龍宮閣か! と思ったけれど、なんか小さいな…
同日、8月20日小樽版に載っていた目を惹くこの写真は弁天閣でした。

 弁天閣なんとか保存を…
 解体惜しむ地元住民 「既定方針変えぬ」と市
 小樽市内有数の景勝地・オタモイ海岸に残かいをさらしているのがかつての大食堂「弁天閣」−。市は事故防止の観点から、近<同閣を解体する予定だか、これに対して地元住民のなかから「オタモイの象徴的存在・弁天閣を壊すにしのぴない。何とか保存の道はないか」との声が高まっている。
写真=地元住民から保存の要望が上がっているオタモイの弁天閣
(北海道新聞 昭和52年8月20日 小樽版)

 へぇーっ、昭和52年8月、まだ弁天閣は残っていたんだ!(これだから、昔の新聞記事は油断ならない。無駄足でも、前後左右を注意して見なければ…) 昭和27年の火事で全部焼失したのかと思ってましたよ。(燃えたのは龍宮閣だけ?) 解体までの経過がよくわかるので、もう少し記事を読み進めます。(完全に「胆振線」話から離脱…)

 真っ青な海にそそり立つ奇岩−というすばらしい自然景観に恵まれたオタモイ海岸は、全国的に有名だったオタモイ地蔵尊とともに戦前は大変なにぎわいだった。市内で割ぽう店を経営している加藤秋太郎さんが、全盛時代の昭和七年に弁天閣、龍宮閣、唐門などの唐様建築物と合わせて大遊園地を造成し、同海岸は地蔵参りやレジャーに訪れる人がひきもきらなかったという。
 ところが、十年前に土地問題をめぐって中央バスが乗り入れをやめてからというもの、道路も建築物も荒れるに任され、かつての姿はふき飛んでしまった。土地所有者(上島コーヒー)とのからみもあって、市は手をつけられないでいたが、再開発を望む地元住民の永年の運動が実り、本年度になってやっと行政の手がさしのべられた。本年度は防護さくの補修など安全策が中心で、このなかに弁天閣の解体計画も含まれた。がけに突き出た形で建っている老朽化した同閣が、事故を招く危険性があるからで、土地所有者は、将来は同じ場所に同様な建築物を新築する意向を明らかにした。しかし、国定公園内だけに建物新築の際は、道の許可が必要で、現在は正式な許可待ち。許可がおり次第すぐ解体工事にかかる予定だ。
 ところが最近になって地元住民のなかから同閣を保存してほしい−との声が高まってきた。同閣は広さ二百七十平方メートルで木造。現在は廃墟と化しているが、京都の清水寺を思わせるようながけに突き立つ何本もの柱や唐様建築様式は由緒深い。同海岸に残存する唯一の唐様建物でもある。こんなことから「弁天閣は文化財的な価値がある。宮大工でなければ建てられないものから、何とかきちんと補修して残せないだろうか」というわけだ。

 ふーん。高校生の頃(昭和43年夏?)、このオタモイ海岸に来たことがあって、なにか焼け落ちたばかりのような建物の残骸があったんだけど、あれは、遊園地かなにかの建物だったんだろうか。あの時でさえ、充分廃墟だったけれど、弁天閣の存在には気がつかなかったなぁ。惜しいことをした。弁天閣、結局、解体されたのかな… 第一次オイルショックを乗り越えて昭和52年まで残っていたのに、なんとも無粋なことをする町だこと。