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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



八月の小樽 (一)
 
 

園井恵子(1913−45年) 映画「無法松の一生」で脚光
 今回は、読者から要望のあった人物の紹介。
 映画「無法松の一生」(一九四三年)で阪東妻三郎の相手役を演じ、一躍脚光を浴びながら戦争に散った女優がいた。
 本名・袴田トミ。岩手県生まれ。小樽に移住して庁立小樽高女(現桜陽高)に学んだが、二年で中退し、あこがれの宝塚歌劇団に入団した。
 十六歳で初舞台。気品あふれる美貌と抜群の演技力で、男役スターになる。退団後、舞台に打ち込む中で、家族を養うために出演したのが「無法松の一生」だった。
 映画は大ヒットしたが、殺到する出演依頼を固辞して舞台に戻る。戦時色が増す中、移動演劇隊「桜隊」に参加し、「無法松の一生」の公演で訪れた広島で被爆した。
 座右の銘は「地獄の苦労を突き抜けなくて極楽には行けない」だった。
(北海道新聞 2007年 小樽・後志版コラム「人物散歩」)

 園井恵子について簡潔にまどめれているので道新のコラム記事の方を使いました。少し簡潔すぎるか… 園井恵子と小樽の関連については「小樽ジャーナル」の記事が詳しいです。

  その朝の九人
 台所の横に八畳の日本間があって、さくら隊はそこを食堂にしていた。朝食は八時前後にきめていた。当時、白い米のめしを食べているものはいなかった。ヤミ食糧を手に入れることのできる者は別とLて、庶民はわずかな配給の米に、麦や大豆や菜っ葉など混ぜて雑炊をつくっていた。
 八月六日のさくら隊の朝食は、芋雑炊に小芋の煮つけと漬物だった。園井恵子は丸山定夫の当番に当たっていたので、二階の座敷へ食事を盆にのせて持って行った。丸山はいぜんとして微熱がつづいたので、一日中寝たり起きたりしていた。
 園井が丸山の座敷に食事を置いて去ったのが、八時一三分ごろだったようである。
 (丸山定夫、園井恵子、高山象三、仲みどり、が周囲のものに言い残した証言をもとに、その
朝のことを組み立てたのである)
 ピカッ、と目の前がまっ白になったとき、丸山定夫は食事の卓へ行こうと寝床から立ったとき。園井恵子は丸山の座敷から出て階下へ行こうとしたとき。高山象三は食事をおえて二階へ上ってきて、廊下の藤椅子に掛けようとしたとき。仲みどりは食事をおえて台所へ食器を持って行きかけたとき。島木つや子は台所で洗い物をはじめたとき。森下彰子、羽原京子、小室喜代、笠絅子は食事をおわろうとするとき、だった。
(新藤兼人「さくら隊8月6日」)

 丸山定夫、園井恵子、高山象三、仲みどりが奇跡的に生き残る。あとの5人は家屋倒壊と同時に即死。

 園井と高山は無傷であることをたしかめあい、よろこんだ。街道に近い農家の納屋に、七日は寝せてもらった。主婦がむすびを恵んでくれた。八日の朝、復旧第一号列車が出ることを伝えきいて、海田市駅へかけつけた。広島駅を出た列車は、すでに満員、やっと窓からはいずりこむことができた。乗っている者は、ほとんど被爆者である。息絶える者が続出した。死体を乗せたまま汽車は走った。
 神戸駅で降り、歩いて六甲山麓の中井家へ急いだ。園井は片方の足に地下足袋、他にズックの運動靴をはいていた。どちらも拾ったものである。二人とも煤の中から抜け出たようなかっこうをしていたが、神戸も空襲を受けて焼け野原であり、ふりかえる人もいなかった。
 中井夫人は、宝塚歌劇団の者がママさんと慕っているひとで、園井恵子はとくに親しくつき合っていた。だからまっすぐに中井家をめざしたのである。
 園井は、玄関にはいるなり、助かったのよ、広島で助かったのよ、と叫んだという。

 「中井夫人(中井志づ)」と園井の関係も、「近代日本の音楽文化とタカラヅカ」(世界思想社)によると、「小樽高女(現桜陽高)」つながりということ。そして、8月6日の即死こそ免れたものの、園井ら四人のたどる経過は同じです。止まらない高熱。一週間後あたりから歯茎に出血がはじまり、頭髪も抜けはじめる。血尿。皮膚出血。熱い、熱いと布団をかきむしる。ここでは、園井恵子をいったん離れて、四人の内の一人、仲みどりがたどった数奇な運命についてふれたい。

 仲みどりは、宇品の倉庫へ収容されていたが、八日の朝復旧列車第一号が出ると聞いて、はねおきた。全裸で救助された仲は、身にまとうものがなく、拾ったシーツ一枚を身にまとっているだけだった。
 宇品から広島駅まで五キロはある。その焼け跡を、仲は駅めざしてかけた。どこにそれだけの力があったのであろうか、仲はかけては休み、かけて、列車に間に合った。園井と高山が乗った列車と同じであるはずだが、顔は合わさなかった。シーツ一枚をまとっただけで、列車の隅に座っていた。
 九日の夜おそく東京に着き、一〇日の朝、杉並区天沼二丁目の母の家にたどりついた。仲みどりもこれといった外傷はなかった。地獄からはいだして、助かったと思った。

 仲みどりは、東京帝国大学附属病院都築外科三七号室に入院して、治療を受けた。
 広島で原子爆弾(一般には発表されなかったが、専門家にはすでにわかっていた)を受けて、放射能をあびた患者として、都築教授以下の慎重な手当てを受けた。(中略)
 二四日ひる。清水善夫が学内の食堂へ行っていると、看護婦から電話があり、急いで病室へ帰ってみると、仲みどりは死んでいた。(中略) 死後一時間後、剖検。解剖執刀者は病理学の三宅仁助教授。「原子爆弾症第一号」となった仲みどりの肺と骨髄の一部は、東大医学部の標本室に保存されている。
 撮影班はカメラを持ちこむことをゆるされた。
 「広汎なる出血を示す」と説明を付された「肺」がある。黒紫色に出血した個所がはっきりみえる。「機能低下せる骨髄」とある大腿骨の一部は、縦割りにしてある。骨髄は造血機能を果たすところだから、血液のあとがあるはずなのに、仲みどりの骨髄は白くふやけたような色をしている。これは、放射能による死の「証」である。女優仲みどりは、ここで永久に最後の演技を演じつづけていく。

 「ここで永久に最後の演技を演じつづけていく」という言葉が胸に突き刺さっている。でも、新藤兼人がドキュメンタリー「さくら隊散る」を撮ってくれたことに心から感謝したい。園井恵子や仲みどりという名を胸に刻んでこれからを生きて行きたい。

 園井恵子は映画演技をつかもうと必死だったにちがいない。この時三〇歳。もう若くはない。女優はこの年ごろ、結婚するか女優として生きるか、どちらかを選ばなければならない。親の反対を押しきって宝塚にはいった彼女である。つねに行動的だった。それは東北人のねばり強さがさせた。宝塚で失恋したとしても、それは彼女の行手をはばむほどのものではなかった。
 つてを求めて薄田研二を訪ねた。それが苦楽座にはいるきっかけとなった。いったん道を選んだからにはあとへひかぬものが園井恵子にはあった。さくら隊も丸山定夫に頼まれれば従うのだった。中井家で小豆をもらって八月五日に広島へ帰ったのである。誕生日は仕事の仲間たちに祝ってもらいたかった。丸山定夫がさくら隊にすがりついたように、園井恵子もさくら隊にしがみついていたのだ。芝居から離れてはいけない、芝居をやっていれば道がひらける、芝居こそ園井恵子のすべてだった。広島の地獄から脱出し、やれ助かったと思った。運の強さを思ったことだろう。無傷だったのだ。しかし放射能という悪魔の手はすでに彼女を押さえていた。殺戮よりももっと残念な手段で人間の首根っこを押えていたのだ。
 園井恵子は、無念であったろう。芝居をやりたかったことだろう。
(新藤兼人「さくら隊散る」)

 追悼。最後に、園井恵子の詩「思い出の小樽」を紹介させてください。

 五月雨の音を聞きながら
 静かに、あのころのことを思う
 水天宮の丘にのぼって
 小樽の夜の街をながめるのが
 私は、たまらなく好きだった
 遠く灯台の灯が明滅する
 微風が、かすかに頬をなでていく
 だらだら坂の街の灯は
 いつまでもだまって、うすにぶく
 私の眼下に横たわる
 花園町の公園通の
 家店がならぷ
 花屋の前に立ちどまる
 鈴蘭はまだ咲いてないのかしら
 “どうしたの?”
 肩をつかれて、ふっとわれにかえる
 ほほえんで立っているのは
 お姉さま!
 だまって一緒に歩き出す……
 いつの間にか、お姉さまの家の前
 二人は何も言わずにまわり右前
 何度も何度も行っては帰る二人を
 夜店の人たちは不思議そうにながめる
 もう人通りはないのだ
 二人の家の真ん中に来たとき
 “サヨナラ”と一言
 後ろも見ずに帰る……
 ああ、あんなこともあったっけ
 もう一度行ってみたい小樽の街