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文芸作品を走る胆振線
 

1.石川啄木 「一握の砂」


 
 

 倶知安の駅前に石川啄木の歌碑があります。かけられている歌は、歌集「一握の砂」より、

   真夜中の
   倶知安駅に下(お)りゆきし
   女の鬢(びん)の古き痍(きず)あと

 啄木が倶知安駅を通過したのは、明治四十年九月十四日の午前二時頃。職を求めて札幌へ向かう途中でした。理由は函館大火。同年八月二十五日夜、函館の石鹸工場から出た火は、折からの台風の強風にあおられ一気に街中に燃え広がります。函館の歴史の中でも一、二を争う規模の大火事でした。
 一命はとりとめたものの、勤め先である弥生尋常小学校やアルバイト先の函館日々新聞社が焼失。啄木は函館での生活を諦めます。新天地として選んだのが札幌。つまり、ここから札幌〜小樽〜釧路と流れ流れてゆく、啄木の北海道放浪の一年間が実質的に始まるわけです。
 啄木研究者の間では、この一年間の北海道放浪がなかったならば、啄木の文学は成立しなかったであろうことは常識となっています。それほど大事な北海道放浪ですが、この「真夜中の……」の歌は、その放浪の最初に出てくる歌。いわば、放浪の合図。啄木の文学が立ち上がってゆく烽火(のろし)にあたる歌なのです。そこに「倶知安」の名が刻まれていることがちょっと嬉しい。

 胆振線が生まれるには、まず、倶知安駅が生まれなければなりません。その倶知安駅が誕生したのは、明治三十七年七月。函館―小樽間の全通を阻んでいたのが、熱郛―然別間の難工事でした。その最後の難関が克服されるのが明治三十七年七月です。まず、熱郛―倶知安間が開通。倶知安駅の誕生です。続いて同年十月、倶知安―然別間が開通。ついに函館―小樽間全通の私鉄・北海道鉄道(後の函館本線)の時代に入ります。啄木の倶知安駅通過の三年前の出来事でした。
 
 

 
 

2.洞爺村史 「にれの木は知っている」


 
 

 「洞爺村史」は一風変わった市町村史です。ありきたりのデータや史実の羅列を嫌って、村の人たちが楽しみ懐かしみながらスラスラ読めることを意図してつくった村史であることが後書きに記されています。事実、小説を読むように楽しく読めます。それで、ここでは、文芸作品として扱います。
 別の意味で、京極町の歴史を「洞爺村史」から始めるのはそれほど突飛なことではありません。なぜなら、倶知安も京極もニセコも、この地域一帯は昔はすべて「虻田村」だったのですから。
 明治二十八年に羊蹄山麓の御料地が解除。植民地として開放されます。明治三十年、現在の京極町のあたりに「京極農場」が誕生します。農場主・京極高徳(たかのり)の行った開墾手法が興味深い。京極高徳は、京極家の二人の番頭格、洞爺村に三橋政之、京極農場に三崎亀之助を配置します。そして、すでに洞爺村の開拓で成功を収めている三橋のラインから開拓・農業指導団を京極農場に送り込むという、いわば二人の番頭格を競わせるような形で生産性を上げてゆく方法を使っています。
 そして、この農業指導団の中に藤村徳治がいたわけです。この藤村徳治が、明治三十一年、ワッカタサップ川上流に鉄鉱石の鉱床を発見したことによって、北海道のいろいろな歴史が変わって行くのです。脇方から鉄が出た。藤村徳治の発見は、私には、明治初期のお雇い外国人ベンジャミン・ライマンの石炭発見と同じくらいの北海道史における大事件だと思っています。脇方鉱山の誕生。倶知安駅誕生の六年前の出来事でした。

 「洞爺村史」はこの「にれの木は知っている」の章の最後で、東倶知安線(すぐに「京極線」に改称)についての京極高徳のエピソードを出していますね。頑として「京極駅」の名前をゆずらなかったという。
 こういうところが、「洞爺村史」は気が利いていると思う所以です。さりげなく、こういう大事なエピソードを結びに持ってくる。京極高徳はなぜ自分の土地に鉄道を敷こうとしたのか? それは、儲かると思ったからです。
 「京極農場」の「農場」という言葉から、なんとなく昔風の「地主―小作」のような経営形態をイメージしがちですが、京極高徳の動きを見てみると、なにか実態はちがうのではないかと思うようになりました。その実態は、現代の「総合商社」に近いような経営感覚なのではないでしょうか。つまり、金が儲かるならば何でも商う。
 脇方から鉄が出た。おそらく、「京極線」というのは、京極高徳の「脇方鉄山」への資本投資なのではないかと考えます。だから「京極」の名をゆずらなかったのです。断じて、これは「東倶知安駅」ではない。京極高徳が投資した「京極駅」であるということだと思います。いわば「京極」という企業の、これは看板なのだから。そして、この投資、まんまと大当たりしたと言わざるを得ません。
 
 

 
 

3.大町政利 「随筆集 鉄石山人」


 
 

 脇方の倶知安鉱業所所長・大町政利が書いた「随筆集 鉄石山人」は、この佐々木六郎著の「わっかたさっぷ」という本の中に収められています。一冊の本の中に、もう一冊別の本が入っているという、変な造りの本。
 大町政利自身が「脇方」について語っているという点で、今回のラインナップの中でも最重要の作品と言えるかもしれません。資本家、権力者の側から「脇方」を、「胆振線」を語っている点で貴重なのです。
 今回のラインナップ、この「鉄石山人」以外は、すべて民衆の側からの視点で書かれた作品と言えますが、この「鉄石山人」だけはちがう。このあと紹介する沼田流人「血の呻き」のような凄惨なタコ部屋労働の実態を描いた作品の対極に、大町政利の「鉄石山人」はあると思います。同じ「タコ部屋」について、大町のような視点もあるんだと知ることは重要です。
 大町政利は当時の東京帝大出の大インテリ。軽妙洒脱な文章や、明治の大文人・大町桂月も最後に登場するような華やかさに圧倒されたわけではありませんが、重要箇所が目白押しなので、今回いちばん長い引用となりました。

 どういうところが重要か。例えば、11pの「鉄道布設に六十万円」の章をご覧ください。ここでは、脇方―京極間の鉄道布設は会社持ちでいいよ。完成したら鉄道当局に寄付するよ。その見返りに、脇方―輪西間の鉄鉱石運賃は少し負けてくれよ…という資本家側の結託があからさまに書かれていますね。何のために「京極線」という鉄道が敷かれたかが露骨に書かれています。大正8年、倶知安―京極間の開通。翌9年には京極―脇方間が早くも開通。京極高徳のバクチも大当たりです。

 14〜15pの「熊と同居の白老鉱山」の章をご覧ください。(白老鉱山も出てきます) 15pで「タコ部屋」について語っていますね。「やむを得ずタコを使ったのだ」の言葉にはびっくりしてしまいます。その「タコ部屋」話の直後には「スキー」の話ですからね。資本家の感覚がどんなものかが、あっけらかんと書かれています。

 興味深いのは17pの「鉱石掘り」に出てくる記述。「現場の道路近くに、三角形型の笹で両側を葺いた小屋」。これは何だ?と聞いたところ、「宿舎である」という答え。
 これは当時の倶知安村(まだ東倶知安村は独立していない)の上山梨、中山梨に入植した山梨県移住民団の人たちなんですね。
 明治四十年八月、啄木の生活を破壊したこの台風は、その数日前には、山梨県に大洪水を発生させていました。山梨県史上でも最大級の被害をもたらした大洪水といわれています。この洪水被害が原因で、この土地での農業を諦め、山梨県民の羊蹄山麓への大移住という事態が起こるのですが、入植にあてられた土地は、山間の傾斜地などのひどい土地ばかりでした。(良い土地はみな京極高徳がとってしまっている) 京極の場合は、この人たちが農業を諦めて脇方の鉱山労働者に流れていくという現象が起こっています。
 この明治四十年の山梨県大洪水は、啄木だけでなく、宮沢賢治などにもつながって行く話なのですが、今日は時間がないので省略します。後で時間があれば…

 重要な箇所がもうひとつ。それは、18pの「鉄道開通式招待者、数百名」の章です。どの招待者も興味深いのですが、その中でもとりわけ、19pの1行目に「第七師団長」の名があるのには吃驚してしまいました。ローカル線の山奥の駅の開通式に陸軍「第七師団長」ですよ。何事かと思います。それもこれも、脇方から鉄が出たの一言ですね。金銀や石炭ではなく、鉄だったからこそ「第七師団長」は来たのでした。資本家にとっては利益目的の「京極線」ですが、国策としての軍事目的の「京極線」も当時からすでにあったことは一目瞭然です。本当にこの招待者リストは興味深いですね。当時の、「脇方」という利権に群がる人間たちの総リストといった趣があります。

 23p以降の「大町桂月」の逸話については、今回は白老町の講演なので省略します。これも、後で時間があれば…
 
 

 
 

4.沼田流人 「血の呻き」


 
 

 沼田流人は、明治三十一年、岩手県岩手郡渋民村生まれ。啄木の遠い血筋にあたるそうです。明治三十八年に母方の祖父の養子となって倶知安村八幡に移り住みます。祖父は木賃宿を営んでいました。京極線が開通するまでは、東倶知安方面やクドサン、ポンクドサン(倶知安村の瑞穂、大和)方面に往来する行商人や農民たちが泊まり賑わっていたそうです。
 その木賃宿で、大正六年から始まった倶知安―京極間の鉄道敷設工事に伴うタコ部屋労働の悲惨な実態を見聞きするわけです。それを基に、長編小説「血の呻き」を発表。即日、発売禁止となります。同年、「血の呻き」第二部にあたる、軽川隧道工事のタコ部屋を描写した部分を書き直したという小説「地獄」を発表。こちらも発禁となりますが、発表された雑誌が「改造」だったのが幸いしたのか、奇跡的に残り、「北海道文学全集」(立風書房)にも収録されました。比較的簡単に読める沼田流人作品として今まで私たちの間で流布していた作品です。ですから、小説「血の呻き」も、「地獄」からの類推で、タコ部屋告発の書と長い間考えていたのですが…
 近年、札幌郷土を掘る会が「小説『血の呻き』とタコ部屋」という本を発表し、第二部の部分を復刻してくれました。この本によって、復刻の原本となった「血の呻き」が北海道立図書館にあることを知り、さっそく、その「血の呻き」を読んで、今、非常に驚いているところです。
 なんと、物語は函館の貧民窟から始まります。ドストエフスキーばりの哲学問答。そして、第二部でようやく倶知安のタコ部屋話に場面が移ります。そして、最後の第三部、また話は函館に戻って第一部で展開された人間関係の決着がはかられます。
 印象としては、よく比較される小林多喜二のようなプロレタリア小説という括りでは難しいような気がしています。単純な「タコ部屋労働告発の書」という理解では、そのスケールの大きさを見失ってしまいます。あえて言うなら、現代の埴谷雄高「死霊」を予言したような作品と言ってもいいかもしれない。沼田流人は未だ未知数であり、最重要の作家と認識しています。
 
 
 この写真は、京極線開通時に、北海道鉄道院が発行した「東倶知安線建設概要」に収められた一枚です。軽川隧道(トンネル)が写っていることで有名な写真です。トンネル右下に建物がありますね。それが「血の呻き」に登場したタコ部屋です。軽川トンネル、中は塞がれていますが、どちらの出口も形はしっかり残っています。近くまで行くことも可能。タコ部屋があった一角だけが空き地になっており(それ以外は畑)、なかなか不気味な雰囲気ではあります。ただ、胆振線最大の産業遺跡であることはまちがいありません。
 
 

 
 

5.本山悦恵 「雪灯り」


 
 

 本山悦恵さんは喜茂別町出身の作家。「夕映えの羊蹄山」という短編小説集の中に収められた一編がこの「雪灯り」です。お話の前半は岩内町が舞台。後半の舞台は喜茂別町に変わります。引用した部分は、その「岩内編」から「喜茂別編」へと移ってゆく間の場面、京極線の車内で、主人公・信治郎の人生が大きく変わってゆくという名場面。軽川トンネルを抜けるという描写に、信治郎の人生の大変化を重ねていて秀逸な作品です。
 この引用部分では、「京極駅」が終着駅になっていますから大正八年の冬でしょう。
 「喜茂別編」の中で、昭和三年開通の京極―喜茂別間をむすぶ「胆振鉄道」が登場します。また、ラストシーンでも胆振鉄道が重要な働きをします。伊達に在住の方なので、もしかしたら、こちらの図書館にも寄贈されているかもしれません。ご一読をお薦めします。
 
 

 
 

6.小林多喜二 「東倶知安行」


 
 

 この「東倶知安行」に描かれた昭和三年二月頃の小林多喜二ですが。北海道拓殖銀行小樽支店に勤めて四年目。翌、昭和四年には「蟹工船」を発表。作家としての自立をめざし上京しますから、この昭和三年は小樽最後の年となります。執筆活動や、共産党の党活動にも積極的にかかわっていた時期です。その、小樽の小林多喜二が、なぜ東倶知安村にいるのか?
 昭和三年一月二十一日、総理大臣田中義一は、民政党の不信任案提出に先立ち、突然内閣を解散しました。その結果、二月二十日にわが国最初の普通選挙が行われることになりました。第一回普通選挙です。北海道一区の労農党(共産党の公然組織)からは山本懸蔵(小説では「島田正策」)が立候補することになりました。東倶知安村に多喜二たちが来たのは、その山本懸蔵の選挙応援隊です。
 小樽で活動しないのは、ひとつには、多喜二が拓銀という大資本の社員であることがあげられます。地元の小樽で公然活動を行うことの危険性がありました。ふたつめの理由としては、「脇方鉱山」の存在でしょう。大量の鉱山労働者、大量のプロレタリアートの存在は、つまり、労農党にとっての大票田を意味しますから。
 帰り道で「京極線」が登場します。この小説、主人公が「私」となっている、多喜二にはたいへん珍しい作品です。源吉はこう動いた…とか、小川龍吉はこう考えた…ではなくて、「私」は見た!、「私」は思った!という、多喜二の内面がストレートに表現されている珍しい作品です。私は小林多喜二が使う北海道弁に何か違和感があって(東京のインテリが頭でこさえた「北海道弁」に聞こえる)あまり良い読者とは言えないのですが、この作品だけは何度読んでも感じるものがありますね。
 蛇足ですが、倶知安駅を降り立った多喜二たちが「労農党・島田正策大演説会」のビラが貼ってあるのを見つけて喜ぶ場面がありますね。このビラ、沼田流人が書いたそうです。

 この小林多喜二の「東倶知安行」までの作品は、倶知安―脇方(喜茂別)間を走る「胆振線」でした。この後の三松正夫さんの「昭和新山物語」からは、倶知安―伊達紋別間が全通した時代の「胆振線」です。
 全通までの様子を見てみますと、まず、昭和十五年、伊達紋別―徳舜別(後の新大滝)間が開通。「胆振縦貫鉄道」ですね。翌昭和十六年、徳舜別―喜茂別間が開通。この時、「胆振線」に改称です。そして、敗戦の一年前、昭和十九年七月、国有化に踏み切ります。もう、戦争対応の「胆振線」であることは誰の目にも明らかです。一刻でも早く、脇方の鉄鉱石を鉄の町・室蘭に運び込みたい一心でつくられた鉄道でした。
 皮肉なことには、全通し、国有化したとたんに、昭和新山の隆起が始まります。自然も戦争には怒っているのでしょうか。三松正夫さんの話に移ります。
 
 

 
 

7.三松正夫 「昭和新山物語」


 
 

 「昭和新山物語」は、子ども向けに書かれた三松さんの自伝です。子どもにもわかりやすい本ですが、大人にだってわかりやすい。昔からの愛読書です。
 本の中で三松さんもあからさまに述べている通り、胆振線というのは、脇方から出た鉄鉱石を鉄の町・室蘭に一刻でも早く送り込むために生まれた軍事鉄道でした。ですから、軍の指令は「胆振線は一本たりとも止めてはならぬ!」です。昭和新山の隆起爆発の下、線路の掛け替え工事に駆り出される住民の姿が、「昭和新山物語」には生々しく描かれています。壮瞥町の郷土資料館(北の湖記念館と併設)に、刻々と隆起する昭和新山(フタバ地区)にあわせて、無数に付け替えられていった線路の様子がパネルになっていますが、まあ凄まじいものですね。
 また同じ壮瞥町には「昭和新山鉄橋遺跡公園」というのがあって、新山の隆起で、長流川にかかっていた胆振線の鉄橋土台が山の中腹にまで押し上げられていった、その鉄橋土台そのものを見ることもできます。吃驚します。
 今回、「昭和新山物語」を読み返していて、大事なことを読み落としていたことに気がつきました。それは、昭和新山の爆発・隆起の中、防災活動や鉄道工事の一切に「人力」で対応していたということです。トラックもない、ブルドーザなんかもちろんない。一切が「人力」でやるしかないような世界の中で、三松ダイヤグラムの作業も続けられていたことには感動しました。
 
 

 
 

8.八木義徳 「漁夫画家


 
 

 戦争が終わりました。皮肉なことには、終戦とともに、昭和新山の隆起も沈静化して行ったのです。
 「漁夫画家」は、有島武郎「生まれ出る悩み」に出てくる画家・木田金次郎に逢いに、八木義徳が室蘭から岩内へ訪ねてゆく話です。
 木田金次郎は、昭和二十九年の洞爺丸台風のあおりで発生した岩内大火で描いた絵のすべてを焼失してしまうのですが、この「漁夫画家」に描かれているのは、岩内大火以前の木田金次郎です。大火以前の、精力的に絵を描いていた木田金次郎を描いているということで、木田を語るときには必ず持ち出される有名な作品です。
 室蘭から岩内までの経路がちょっと面白いですね。まず、室蘭から伊達紋別までが室蘭本線。伊達紋別から倶知安までが「胆振線」です。倶知安から小沢までが函館本線。そして、最後が、小沢―岩内間の「岩内線」。

 「小沢駅」の名前が出てきましたので、ここで、「岩内線」について、脱線します。
 北海道の鉄道路線は、明治二十九年に公布された「北海道鉄道敷設法」がベースになっています。北海道以外の、日本全国の鉄道網は、その数年前に公布された「鉄道敷設法」で早々と決まっていたのですが、北海道だけは利権や誘致合戦が錯綜し、ルート案がなかなか決まりませんでした。
 例えば、函館本線、その「敷設法」に至る原案段階ではルート案は二つあり、第1案のルートでは、倶知安を出ると、汽車は(後の胆振線の駅である)「六郷」に向かいます。「小沢」とは全く反対の方向です。そして、「六郷」を通り(現在は国道393「メイプル街道」となっている)ルートで「赤井川」に出、そこから「然別」に抜けるというルートでした。いわば、稲穂峠をぐるっと迂回するルートです。距離は長くなりますが、難所といわれた稲穂トンネル工事をしなくて済む。
 この案に猛反対したのが岩内町です。岩内町は、「黒松内」まで来た汽車は、昔の寿都鉄道ルートを北上し「寿都」に出る。そして、海岸線を走り「岩内」へ。そこから、かつての「岩内線」ルートで「小沢」を通り小樽方面へ抜けるルートを主張しました。
 結果的に岩内町の主張は受け入れられませんでした。しかし、わずかに「赤井川」ルート案を修正させ、折衷案として「小沢駅」をつくらせることに成功したのです。もし岩内町が頑張らなければ「小沢駅」はなく、八木義徳が岩内に着くには大変な時間と労力がかかっただろうと思います。
 この「敷設法」の第1ルート案、最近発表された「北海道新幹線」のルート案にたいへんよく似ています。百年の時を超えて「赤井川」ルートの復活なのでしょうか。百年前の「岩内」にかわって、今回は「余市」が路線から外れるわけですが、余市ファンクラブの私としてはなかなか複雑な気持ちです。
 
 

 
 

9.峯崎ひさみ 「踏切」


 
 

 峯崎ひさみさんは京極町出身の作家。「穴はずれ」という傑作を世に出しています。京極の町が舞台になった作品を今でも書き続けられていますが、今日は「胆振線」ということで、「踏切」という作品を持ってきました。
 中学卒業をひかえた「朝子」が主人公。胆振線の踏切事故で父が死亡。母は踏切事故のショックで精神に異常を来してしまう。娘の朝子をじいちゃんにあずけたまま、母は室蘭の精神病院へ。そのまま室蘭の実家へひきこもる。恐ろしくて、汽車には乗れない。
 引用したのは、その母が、娘の高校進学をひかえ、一大決心をして、あの胆振線に乗って、娘を引き取るために、今、京極に向かってきている…という場面です。母の到着を待つ朝子たちがいる京極駅の光景が描かれています。

 もう、お気づきだと思いますが、八木義徳以降、「文芸作品を走る胆振線」に変化が出てきています。それは、「室蘭」側からやってくる胆振線というものが描かれはじめたことです。木田金次郎に会うために。娘を室蘭の高校にひきとるために。
 鉄鉱石を運ぶことが最大の意味だった胆振線が、今頃になって「旅客」という鉄道本来の意味に目覚めるという構図が大変面白いです。仕事一筋で、家庭も顧みずにやってきた猛烈サラリーマンが、妻の死によって、家族の問題に真っ向から対面しなければならなくなったようなものでしょうか。
 敗戦によって、その存在意義だった「軍事目的」の胆振線はバッサリと終わりました。もうこの時点で、胆振線の意味は本当は終わっていたとも今なら思います。ただ、実際には、高度成長の波にのって、ゆっくりゆっくりと老衰を迎えるといった展開になって行きます。昭和四十五年の脇方鉱山の閉山は、さらに胆振線の産業目的を空洞化させました。過疎が空洞化に拍車をかけます。典型的な赤字路線への転落です。
 
 

 
 

10.宮脇俊三 「最長片道切符の旅」


 
 

 宮脇俊三のこの本まで来ると、「ああ、胆振線も本当に末期だなあ、来るところまで来たなあ」とため息が出ます。
 最長片道切符。十勝の「広尾」駅をスタートし、九州の「枕崎」駅まで。同じルートを二度と通らず、一筆書きで、最長の距離をかせぐ。そのための「胆振線」。
 ほとんど、鉄ちゃんの遊び道具ですね。このような「胆振線」の利用は、後にも先にも宮脇俊三だけでしょう。
 以前にも、「胆振線」が登場する作品を読むということで読書会をひらいたことがあるのです。その時も、今まで紹介してきた一〜九章の作品群とあまりにも雰囲気がちがうので、ラインナップに入れようかどうか迷ったことを思い出します。結果的に、入れて正解。読書会でいちばん好評だったのは、じつは、この宮脇俊三の「最長片道切符の旅」だったのです。
 というか、「私たちが記憶している胆振線にいちばん近い」ということでした。読書会はほとんどお年寄りが多かったのですが、他の作品は「私の知ってる胆振線じゃない」みたいな反応でしたね。小林多喜二や三松正夫の時代から、相当な時間が経ったんだなあということを実感しました。もう誰も戦前の胆振線は憶えていない。
 この本には感心するところもありました。それは、宮脇俊三のお洒落な文章という点です。「六日目」冒頭の一行を見てください。「町はさびれても駅は小さくならない」ですよ。いやー、「小樽」という町の現在をこのように表現した名文、他に知りません。さすが、中央公論社の編集長はちがうなあと思いましたね。
 
 

 
 

11.「男はつらいよ 旅と女と寅次郎」


 
 

 「フーテンの寅さん」は、おまけみたいなものです。
 「男はつらいよ 旅と女と寅次郎」。マドンナ役を歌手の都はるみが演じるという珍しい「寅さん」作品です。都はるみですから、当然映画の中ではばんばん唄が流れます。ミュージカル仕立ての「寅さん」映画という点でも珍しい。
 お話の筋とは関係なく、最後の最後にこのシーン、京極駅を出てくる寅さんが映ります。次のコマでは、いちめんに馬鈴薯の花が咲く京極町が映り、カメラは羊蹄山でぴたっと止まります。そして、田舎の夏祭り風景。今日も、日本のどこかの町の縁日で寅さんは声をあげている…というお約束のエンディングです。
 その「日本のどこかの町」の駅に「京極駅」が選ばれたのが嬉しいですね。映画「喜びも悲しみも幾年月」のエンディングで小樽の日和山灯台が映るのと同じくらい嬉しいです。なにか、寅さんが降り立った幾つもの幾つもの駅、昭和の日本の駅を象徴するもののような気がします。

 啄木からフーテンの寅さんまで、北海道のあるローカル線がたどった歴史を駈け足で見てきました。日本の鉄道史から見れば数奇な人生をたどった「胆振線」にも見えます。しかし、「開拓」という宿命を背負った北海道の歴史から見れば、典型的な北海道のローカル線なのかもしれません。
 まだ北海道の鉄道網が根室や稚内に達していない時代にすでに鉄道が走っていたおかげで、数多くの文芸作品に「胆振線」はその痕跡を残しました。文芸作品は、郷土史の本のように正確なデータも証言も出ては来ません。しかし、登場人物の背後には、そこには必ず時代の雰囲気が存在しているのです。優れた作品ほど、そうなります。そして、それぞれの時代の中で、懸命にその時代精神を生きた「胆振線」の姿を私たちはくっきりと思い描くことができるのです。
 
 

(2012年7月21日/白老町・仙台藩白老元陣屋資料館での講演を文章化)