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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



五月の京極 (二)
 
 

 傾斜はいよいよきつく、熊笹もいたどりの葉もそよりともしなかった。振り返ると、目の下に北の沢の集落が見えた。竜川、寿橋、集会所、集乳所、神社、雑貨屋、学校、そして白くうねるのは村道だ。
(峯崎ひさみ「おとぎり草」)

 その学校。今回の「私たちの学校」は錦小中学校です。倶知安第六尋常小学校附属カシプニ特別教授所を前身に、明治39年10月、錦小中学校として創立。昭和35年6月発行の「広報きょうごく」第37号がとりあげた時点での生徒数、小学校が62名、中学校が46名。
 錦中二年生の本間滋くんの作文です。

 「京極村字錦」ほんとうにりつぱな名前だと思います。だが京極の市街から約九キロも山へ入らねばなりません。道路も悪いのです。
 うちの兄さんは京都の大学にいますが、京都の人は錦という名をきいて、ひじようにりつぱな所だと思つているそうです。兄さんの話だと、京都にも「キヨウゴク」という所があつて、しかも錦通りというにぎやかな所があるのでそれから「京極の錦」を連想しているようです。
(広報きょうごく 第37号/錦中二年・本間滋「錦という村」)

 あっはっは。それは傑作。京極の名水も全国へ販売しているけれど、「京極」の名前使うのは関東圏までだそうですね。関西から以西には「羊蹄の名水」で出しているという話を聞いたことがある。これも、「京極の錦」みたいな連想を避けているんでしょうね。

 しかし、僕は京都の錦と同じように僕の錦もいい所だと思います。学校は小さく生徒も全部で百十人ほどよりいませんが、みんな仲よく、先生がたもいいし、ほんとうによい所です。僕もこの錦へ来てもう七年になるが、今まで住んでいたどこよりもよい所だと思っています。父も母も教員生活の最後をここで終りたいといつも話しています。近ごろ錦からだんだん人が出ていきますが、そのたぴにたまらなく淋しい気がします。僕は大きくなつても忘れずにきつと錦へ来てみようと思つています。「ふるさとの山はありがたきかな」という啄木の歌の意味も何だかわかるような気がします。

 今年の年賀状、おじさんも啄木の「ふるさとの山に向ひて/言ふことなし/ふるさとの山はありがたきかな」を書いたよ。なにか、「おめでとう」とか書くのがつらくてね。
 この「広報きょうごく」第37号が印象深いのは、2ページ見開きで「京極市街大火をかえりみて」という特集を組んでいるところ。

 きよ年の五月二日
 学校から帰つたら
 家はもえてまつ黒な木だけがのこつていた
 勉強どうぐもカール人形もみんなもえてなかつた
 おとうさんやおかあさんの大事なものも
 そして弟のオモチャまではいにしてしまつた
 わたしは一年たつたいまもわすれられない
 火はほんとうにこわいものだ
 (京極小学校四年 熊谷恵「京極の火事」)

 昭和34年5月2日、京極市街43戸を焼く大火事。

 窓ごしに、風の強い外をぼんやりと見ている私に、「もはや、一年たつなあ。」と父が元気のない声でいつた。
 去年も、これと同じような風の強い日だつた。ウーウーと激しくサイレンがなる。なおもつづけウーウーと、あつ火事だ!!私は、教室をとび出して表を見た。真赤な火が、どんどん燃えあがつている。すぐ先生から「東京極の者は、帰りなさい」と連絡があつた。なんだか、足がガタガタして、進まない。いつもなら待つてくれる、友も今日ばかりは、またずに、サツサツと走つて行く。(中略)
 一年たつた今では災難とあきらめてはいるが、ただあの大火の犠牲となつた私達の悲しみを、無駄にはしたくない。火事は、天災と違つて人々の心がけ次第で防ぐことの出きるものであるから、この大火記念日も機庁に、おたがいに火に注意してあのような、惨事を二度とくり返すことのないようにしてほしい。 終り
 (京極中学校二年 山田コウ「大火で家を失つて」)
 
(昭和34年5月2日の大火を伝える北海道新聞記事)