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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



五月の京極 (一)
 
 

 明治以来、軍国主義教育のもとに育てられて来た日本国民は、.日華事変以来、「尽忠報国」「東亜新秩序建設」「聖戦貫徹」などの旗印しのもとに、「一億一心」一路戦争に邁進した。戦況日に日に困難を伝え、「一億玉砕」、「本土決戦」が叫ばれるようになっても、なお天佑神助と必勝を信じて疑わなかった。しかし神風は吹かず、あらひと神と尊崇した天皇が、御自身でマイクの前に立たれ敗戦と降伏を全国民にお告げになったのである。
 不幸にも、この昭和20年は大正2年、昭和6、7年と同様の大凶作で、戦争のため、あらゆる物資が乏しく、且つ飢をしのぐ食糧さえ不作とあって、国民は二重三重の苦しみを味わなければならなかった。
(京極町史/第2節 戦後の混乱)

 この項に、脇方鉱山の具体的な事態・数字が示されているので抜き書きします。

 脇方部落史(阿部長之助編)による終戦当時脇方の労務者収容寮には朝鮮人1,004人と中華人(捕虜)565人、あわせて約1,600人近くが15の寮に別れて強制労働をさせられていた。8月15日の日本敗戦をいつの間にか彼らは知り、中国人は戦勝国に、朝鮮人は独立を叫んで、対日本人との立場が逆になった。それまでのうっ憤を一時に爆発させた彼等は暴動を起した。

 以下、その「脇方部落史」の記述。

 中華人は附近民家を略奪し暴威をたくましうするに至り、華人の送還後、朝鮮人は大集団を以て会杜の配給所を襲撃しトラックを奪取し、所内の物資を車に満載して朝鮮人の白樺寮に接収し、配給機構は悉く朝鮮人の管理下に置かれる事となり、更に他の一団は事務所を襲い、窓硝子を破り所内に侵入して器物を手当り次第に破壊し、生活課長、労務課長その他係員を乱打し傷害を与え、惨憺たる光景を呈するに至った。一方解放された華人は付近部落民宅から略奪し、更に京極市街に進出して衣料商店を略奪し村民をして戦々競々たらしめたのであった。第3国人に対し敗戦国民の悲しさ警官といえども取締り出来なかったので、連合軍の出動を請い漸く鎮圧せしめたのである。第3国人の暴動に関し、如何ともなし得なかったことは、実に憤慨に耐えなかった。

 一団は京極ばかりでなく、汽車で行かれる所は喜茂別、倶知安、狩太(ニセコ)、蘭越、小沢、岩内、仁木方面まで出かけさまざまな略奪を働いた。また、彼らは会社の労務関係者に対して報復的な乱暴を働いたが、しかし、同じ労務関係でも日頃かれらに温情をもって接した人々に対しては決して乱暴しなかったという。中国人と朝鮮人との間のトラブルもあり、全員が引き揚げ帰国となるまで脇方鉱山は不安な日々であったことを「京極町史」は伝えている。

 当時を回想した元脇方鉱山主婦の会会長永江よしの一文。

 戦時中は増産のため朝鮮から募集して来た労務者と中国人の捕虜と加わり3交替で日夜通しの作業でした。朝鮮人寮は社宅区域内に数か所あり、休日には2〜3人のグループで“まんとう”とかいうパンをかじりながら散歩する姿も見られ脇方の子どももパンをもらって食べるなど日本人には親しみのある態度で接しておりました。中国人は社宅外の左沢の奥に大きな収容所があり、規則正しい生活と作業のようでした。食糧運びに出て来たのを見た事がありました。長い列の50mくらいづつに監視人がついて、2人1組でモッコかつぎで滑らiないように防寒靴の上にワラジをはかせていました。綿の入った特殊な衣服、雪焼けのした顔にヒゲが伸び目が異様に輝いているようでした。この人たちにも妻や子もあるはずと、哀れな姿に涙ぐみながらながめたものでした。(中略)
 また中国人と朝鮮人との衝突では棒を持って街頭でなぐりあい、私たちは一日も早く脇方を引き揚げてくれる事を念じでおりました。
 やがて両国の労務者は数回に分けて引揚げが始まりました。私の家にも「スーツケース・皮靴あったら売ってくれ」と言って2〜3人が来ました。昔風の行李製で大きなもの惜しいとは思いながらも、これで帰ってくれるという喜びと帰国する人への餞けの意味もふくめて無償であげると言ったら、何かわからぬ言葉で頭を下げてくれました。就労中の姿からは想像もつかぬ清潔な服装と、なかなかハンサムな容貌、どの人も笑顔でふり返えって手をふって行く人もありました。

 気になるのは、この永江よし氏の回想文の横に「朝鮮人帰国記念碑」の写真が添えられていること。これ、明らかにちがいます。この碑は、同町史の「第12節 京極町の碑」にも書いてあるとおり、

 帰国記念植樹碑
 運動公園南端にあるこの碑は昭和35年に帰国した京極在住の朝鮮民主主義人民共和国人の希望で建てたもの。運動公園南端のトドマツ類などがそれである。この人たちの心をうけて、樹木は大事にしたいものである。

という碑なのです。(碑の方は碑で「樹木は大事にしたいものである」なんて間抜けな結びにガックリしてしまいますが…)
 
 
 昭和35年5月の植樹ということからもわかる通り、これは、34年12月から始まった北朝鮮への在日朝鮮人の「帰国事業」による帰国です。終戦(昭和20年)直後の中国人・朝鮮人の引き揚げ帰国とはちがう。

 「京極町史」の発行は昭和52年(1977年)。いつもこの手の誤解に出会うと、ああ、こんなもんだったなぁ、私たちの「北朝鮮」認識なんて…と悲しくなってしまいます。おそらく、日本人拉致問題がなかったなら、今でもこれくらいの歴史認識で平気で世の中渡っているつもりの大人だったと思うことは、とてもつらいことです。北朝鮮に「帰国」した人、93,340人。うち、少なくとも6,839人は日本人妻や子といった日本国籍保持者。北朝鮮による壮大な「拉致」。