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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



五月の小樽 (四)
 
 

 事件の概要は以下のようなことです。

 ――昨一五日午前一〇時半頃、小樽運河竜宮橋附近で、ヘドロ中に沈んでいた男の遺体がひき上げられた。男の身許は、所持品等から札幌市北区北七条西八丁目美術講師木田魁さん(四三)と推定される。死因については、目下司法解剖中で詳細は発表されていない。小樽警察署では、事故死、自殺、他殺それぞれの可能性を考慮しつつ捜査中とのことである――
<一九七九(昭和五四)年一一月一六日『北海新聞』>

 ミステリー作品なので、例によって、謎解き部分や結末にはふれません。なぜ、十一月の事件が「五月の小樽」に入ってくるのかについても書くことができない。読んでもらうしかありません。でも、読んでもらうと、すぐに別の面白さに気づきます。この作品が抜群の小樽案内になっていることに。それも「運河論争」真っ最中の小樽にタイムトリップして行けるのです。すでに書き出しからして、やる気満々。

 小樽駅は、ホームが高架になっているわけではない。だが、階段を一階分おりた地下通路が、そのまま開札ロヘ通じ、玄関へと出てしまう。玄関からは、運河と港へ通じるだらだら坂が見おろせる。いつの間にか、一階だったはずのホームが二階になり、地下だったはずの通路が一階になってしまうわけだ。この奇妙な感覚の混乱は、駅そのものが坂の斜面に建っているからだ。
 この錯乱には間もなく慣れることができる。だが、だらだら坂の中央通が、南から北へではなく、西から東へ向かっているということには、私はどうしてもなじめない。小樽の港が北へではなく、東へ向かって開いているということに、なかなかなっとくがいかないからだ。それはたぶん、日本列島全体を鳥瞰する大ざっぱな地図のせいだ。その地図から、小樽は北方の海に面して位置しているという先入観を植えつけられていたせいだ。
(三枝禮三「夜の運河」)

 由緒正しく、小樽駅から物語は始まります。

 この中央通は、もともと「第二火防線」とよばれてきた。火防線の起こりは、明治三七年五月八日の大火にまでさかのぽる。日露戦争さ中、遼陽の陥落を祝う提灯行列が街をねり歩いたその夜、稲穂町の米穀取引所附近から出火、折からの強風に煽られ、二七時間燃えつづけ、稲穂、色内町一帯を焼きつくした。(中略) 当時駅側から撮ったらしい焼跡の写真で見ると、大小三十数隻もの船が浮かんだ港が焼跡の向こうに直接見える。だが、その写真を見る者の目を驚かすのは、海べりに不思議にも焼け残って堂堂と林立している建造物群の偉容だ。それは、言うまでもなく、明治二十年代以来競って建造されてきた石造の倉庫群にほかならない。なかでもひときわ目を惹くのが、切妻屋根の上に立上がった巨大な越屋根を持ち、その壁面高く山七の浮彫をあげた大家七平の倉庫である。

 明治37年の大火を語るうちに、さりげなく、物語の舞台「小樽運河」へ読者を誘い出すテクニックは見事。

 「そういうものですかなあ、わしらにはわからんが……。それにしても、絵描きさんたちには、あんな汚い運河のどこがそれほどいいんでしょうかなあ」
 誘導訊問だった。僕にそんなことが器用に答えられるはずがない。
 「――しかし、まあ、運河は、今のうちに描いておくことですわな。とくに、思いだして描くわけにいかんということなら、なおさらですからな。ご存知でしょう、埋立の話。もっとも、例によって反対運動も起こるには起こっておりますがな……」
 銀縁眼鏡は、こちらの煮えきらない反応など、まるで意に介さないように、ひとりで勝手に運河問題を論じ始めた。
 「だいたい、歴史なんて、皮肉なものですよ。七、八十年前の運河設計当初には、市当局と保守系の茶話会――後の政友系公正会ですがね、これが運河式を推進しようとしていたのに対して、後の革新クラブの協和会は、運河より道路だ、と盛んに反対したり、設計変更を迫ったりしておったわけですよ。お蔭で、大正一二年の運河完成までには、話が始まった明治年間から数えると、なんと三〇年近くかかってしまった。しかもですよ、五年後にはもう時代遅れで、使い物にならなくなってしまったというんだから悲劇ですよ。いや喜劇ですな」
 銀縁眼鏡は、オーバーの前をはだけると、片肱を張り、チョッキの胸ポケットに、肥えた拇指をつっこんで、ひとりで悦に入っているらしかった。
 「ところが、昭和四一年のことですがね、高度経済成長の波にのった市の理事者と与党の保守党が言い出して、運河を埋立てて道路を広くすることにきめた。すると今度は、革新系の野党や市民が、それに対して、道路より運河だ、と反対したり設計変更を迫ったりし始めた。五〇年の間に、運河か道路かで、保守と革新の立場がすっかり入れ替ってしまったなんて、歴史の皮肉というものじゃありませんか。ねえ」
 「歴史は直線でなく、無意味な無限の循環だという説もありますからね。立場が変われば役も変わるというものでしょう」
 三つ揃いを着たアポロ風の連れの男が、始めて口をはさんだ。しかし、しゃっくりのような不似合な笑いにそれをまぎらすと、すぐまた口をつぐんでしまった。
 「まあ、しょせんは、コップの中の嵐ですわな。泰山鳴動鼠一匹とも言わさらん下らぬ暇つぶしの運河ごっこですよ」

 あの頃の時代相。まだ、CDや家庭用ビデオや8ビットパソコン(←マイコンといっていた)が登場するにはあと数年の間があった。もちろん、ケータイなどない。家には、日露戦争を戦った祖父がまだ生きていた…

 今の人たちが、この「夜の運河」を読むと、どんな感じになるんだろうな。「大家倉庫」をいきなり「おおやそうこ」とか読んで失笑をかうんだろうか。