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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



五月の小樽 (三)
 
 

 四月二十一日、東京睦派の女義太夫である竹本朝駒一座が札幌にやって来た。一座には竹本春駒、竹本綱枝、国之助、落語の蝶八、蝶六らがいた。札幌で一度公演を行い、旭川巡業にまわり、旭川歌舞伎座で公演を打った。
 このとき、新八の新聞連載はまだつづいており、綱枝は連載によって、新八と近藤の写真の存在を知ったにちがいない。近藤勇の写真は、二カ月前の第五回分に掲載されていた。
 札幌公演を終えると、一座は解散となり、綱枝は落語家の蝶八、蝶六と一座を組んで、五月二日から小樽演芸館で興行を打つことになった。綱枝は「お染久松野崎村」「金比羅利生記」など(「北海タイムス」大正二年五月二、三日付)を披露した。
 この公演の後、五月二十二日、竹本綱枝太夫は新八を突然訪れ、近藤勇の娘であると名乗った。新八は一瞬戸惑い、近藤の娘であるかどうか疑った。綱枝は旅廻りの女義太夫として、小樽に来演中であると述べ、新八が秘蔵しているという勇の写真をぜひ拝見させてほしいと懇願した。茶菓の接待をした娘のゆきは「愛くるしいという女ではなかったが、少しばかりケンがあった」、「それにしてもどことなく色っぽい人だった」(栗賀大介『新選組興亡史』)と語り残している。

(杉村悦郎「新選組永倉新八外伝」)

 「新八の新聞連載」とは、大正二年三月から小樽新聞で始まった「永倉新八―昔は近藤勇の友達 今は小樽で楽隠居」のことです。六月までの全70回連載。以前、この連載について書きました。

 「新撰組

 この時、竹本綱枝こと山田音羽、少なくとも四十六歳。近藤の愛妾について、島田魁は、深雪太夫、その妹である孝子、京都三本木の芸者駒野、芸者植野、島原木津屋の金太夫、祇園町の山絹の養女お芳などの名を挙げています(子母沢寛「新選組始末記」)が、新八の尋ねた山田音羽の母の名には聞き覚えがなかった。しかたなく、写真の裏書きには音羽の名前と写真を貸し与えた経緯のみを記したといいます。ひたむきさに胸を打たれたが、近藤の娘であるという確証がなく、軽々しく「近藤勇娘」と書くわけにはいかなかったのです。

 大正二年五月二十二日
東京市本所区番場町四丁目七番地 山田音羽 芸名 綱枝太夫
近藤勇写真見るに泪を流し、同人写真拝借いたしたくと申し、貸し与ふ。両人複写いたし送る。
  右 土方歳三義豊 左 近藤勇昌宜
  新撰組副長助勤 永倉新八載之 改 杉村義衛治備 大正二年六月十日

 どうなんでしょうね。私みたいなミーハーには、山田音羽の写真を見ただけで「ああ、こりゃ娘だわ…」と信じてしまいそうですが。
 
 
山田音羽          近藤勇
 
 「新選組永倉新八外伝」には、新八が樺戸集治監の剣術師範として招聘された一件にもふれられています。「赤い人」たちが明治十四年につくった樺戸集治監。

 明治十五年十月、新八は北海道の樺戸集治監に剣術師範として招聘された。集治監とは無期や長期の徒刑、流刑などの重罪囚を収容するための監獄である。
 新八は東京を引き払い、妻よね、義太郎、ゆき、養母美佐とともに海路、北海道をめざした。函館に寄り、さらに小樽へと向かった。妻子と養母は小樽に在住することになっていたために、新八は、ここで家族と別れ、江別をまわって石狩川を遡って樺戸に向かった。
 この時期については新八が「十五年十月、樺戸監獄に剣術師範として聘され十九年に辞職する」(「連載」)と手短に語っているだけで、そのほかに家伝はない。

 新八の樺戸在住を証拠立てるものはこの連載記事以外にはない。ないったら、ない。しかし、ここから執念で証拠を探し出してくるのが「新選組永倉新八外伝」の凄いところ。

 昭和四十六年、札幌の雑誌に「永倉新八改め杉村義衛伝」(現在の『新選組興亡史―永倉新八の生涯』)を執筆していた栗賀大介氏が月形町役場の熊谷正吉氏に、樺戸における新八に関する資料調査を依頼した。熊谷氏は戦時中、村役場で兵事戸籍係を務め、召集令状を本人に渡しに行くのが主な仕事だった。終戦を迎えると仕事が一変し、上司から証拠隠滅のために兵事関係の書類とともに古い書類を焼却することを指示されたという。
 焼こうとして見た書類に、明治時代の寄留戸籍簿(現在の住民登録簿)があった。私はすぐに「これは取っておくべきではないか」と感じました。貴重な資料になる、というひらめきのようなものがあって。それで、こっそり机の奥の方に隠して、上司には知らんぷりして「焼きました」と言いましたよ。その時残した書類は四十冊ぐらいでしたかね。後で役場の書庫に移しました。(「私のなかの歴史」/「北海道新聞」平成七年六月十五日付)
 そのなかに「自明治十六年一月一日 乙ノ部寄留戸籍簿 樺戸郡月形村 戸長役場」という綴りを幸運にも見つけだした。
  札幌県後志国小樽郡小樽村入船町一九九番地
  平民 杉村義衛 弘化二巳年四月生
 とあり、これが新八の樺戸在住を伝える唯一の資料である。
 新八の生年が弘化二巳年(一八四五)となっているが、実際は天保十年(一八三九)である。六歳も若く記載されているのは単なる誤記と思われるが、典獄の月形潔より年長であることを気がねしたものという指摘もある。当時、月形は三十五歳、新八は四十三歳であった。

 いやー、細かい、細かい… 大雑把な人間なので、こういう郷土史家の執念には辟易とすることがあります。毎年五月が来ると、あの市役所前の通りにある板碑のこと、書かなくちゃ…とは思っていたのだけれど、文献読んでるうちに面倒くさくなって、いつも来年送りにしていたのでした。ああ、これでやっと、長年の宿題を果たしたぞ。