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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



五月の小樽 (一)
 
 

 一時間ほど待たされた後、二人ずつ鎖でつながれ、編笠をかぶされて船艙のせまい階段をあがった。新鮮な外気が快く感じられたが、温気のこもった船艙にとじこめられていたかれらには、空気がひどく肌寒く、くしゃみをする者もいた。
 甲板にあがったかれらは、待ちかねていたように周囲に視線を走らせた。町が、眼前にあった。蔵が海岸にならび、その後方に、低い家並のひろがりがみえる。木造の桟橋は千尺以上の長さで、築造されてから間もないらしく木肌が新しく、大きな蒸気船が二隻つながれていた。湾口には岬が突き出ていて、右方向には、そびえ立つ峰々が望見できた。
(吉村昭「赤い人」)

 明治十四年四月下旬、東京府下小菅(こすげ)村の東京集治監から連れ出された囚人たち。綾瀬川で船に乗せられ横浜港へ。「逃走をくわだてるような不心得者は、容赦せぬ。水中に飛び込んでも手足の自由はきかず、溺れ死ぬ。救い上げることなどせぬ」。
 横浜で、さらに一隻の汽船に乗り換える。翌朝、港を離れた船は外海へ。一日経ち、二日経ち、護送先は宮城集治監かと思われた船は一向に泊まる気配をみせない。光のささない船艙に閉じこめられた囚人たち「赤い人」が外に出られたのは五日目の朝だった。

 囚人の一人が堪えきれぬように、
 「ここはどこです」
 と、看守に声をかけた。
 看守は振返ったが、声を発したことをなじるような鋭い眼を囚人に向けただけで答えなかった。
 「オタルナイだ」
 町並に視線を据えていた平服の男が、看守を無視したように大きな声で言った。
 「オタルナイ?」
 囚人が、いぶかしそうにつぶやいた。
 「北海道後志国の小樽だ」
 男が、薄笑いしながら答えた。
 「北海道?」
 囚人たちの中から、悲痛な声があがった。

 「赤い人」は察知したのだった。死ぬかもしれない…と。北海道。蝦夷。冬に火気もない獄舎。そもそも蝦夷地に獄舎なんてあるのか。俺たちは雪の中に棄てられるのか…
 彼らは北海道に新しく設置される集治監建設の第一陣だった。樺戸(かばと)集治監。自分たちを収容する獄舎を自分たちがつくるという、なんという矛盾。なんという過酷。

 いつも書きますように、吉村昭の小説は部分引用が不可能です。全文読んでもらうしか方法はありません。ただ、そのルールを破ってここに引用したのは、ひとつには、思いもかけず「小樽」の名前が出てきたこと。そして、もうひとつがこの発見。

 明治十三年二月、太政官から内務省に対して北海道に集治監を建設する計画を推しすすめるように、という指令が出され、建設地の選定については、北海道開拓をつかさどる開拓使長官と協議するよう指示された。開拓使長官は、明治八年八月以来、陸軍中将黒田清隆が就任していて、黒田は、内務卿からの依頼に対して、開拓使庁内で検討させた結果、
 一 石狩国樺戸郡 石狩川上流須倍都太(しべつぶと)
 二 胆振・後志国の境界辺にある羊蹄山麓
 三 十勝川沿岸
 の三候補地の中からえらぶべきだ、と回答してきた。
 内務卿伊藤博文は、調査団の派遣を決定し、人選の末、団長に内務省御用掛権少書記官月形(つきがた)潔を任命した。

 へえーっ。「羊蹄山麓」なんてアイデアがあったんだ。(これだから、吉村昭の作品は油断も隙もない…) 函館に着いた月形潔は、さっそく七重(ななえ)村の勧業試験場主任官・湯地定基に候補地の意見を聞きに行く。湯地の意見では、須倍都太は開拓使庁のある札幌から三十里、囚人の押送、資材・食料の調達などに難ありとのことだった。羊蹄山麓と十勝川沿岸の二候補地を比べてみると、距離的にみて札幌西方十五里の羊蹄山麓が優位。さらに山麓一帯に肥沃な原野が広がっており開墾地として最適である。結論、「羊蹄山麓」と。

 知らないことがいっぱいある。もっと本を読まなくでは。