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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



三月の京極 (二)
 
 

 僕は三月二十八日に札幌から脇方に来ました。札幌の幌西小学校の二組のみんなと別れれることが、一番かなしかつた。
 脇方に来てみると学校も小さいし、色々な道具も少ないから、あまり遊べないと思いましだが、今では学校にもなれ、友達にもなかよしができました。そればかりか、遊ぶことがたくさんあつていそがしいです。
(広報きょうごく 第36号/六年 斉藤泰秀「脇方に来て」)

 昭和35年度の「広報きょうごく」はリレー方式で京極町内にあった小中学校の紹介をしています。引用したのは、その「脇方小学校」の回。六年生の斉藤泰秀君の作文です。活き活きとした文章なので、もっと読んでみましょう。

 この間の日曜には友達四人で、おにぎりを持つて山に行き、雪小屋を作つて遊ぴました。そして高い所からとび下りたり、おとしたりしました。まだ二米ぐらい雪があるので、けがはしません。その間に木の枝を折つて、それから流れ出るしるをのみました。あまくて、あまくて、お話しになりません。そして遊びつかれると、雪小屋に入つて中でねたり、話をしたり、本を読んだりします。

 うん、おもしろそうだな。都会の子も、あっという間に適応してしまうんだな。

 いずみには“ざりがに”がいるので、.取りに行きました。はじめ、どうやつて取るのか、ぜんぜんわかりませんでしたが、友達がやる通りにしてやつてみましだ。ざりがにのいそうな所の水を流してほすと、ぞろり/\かわいい“ざりがに”がはい出してきます。そこを、はさみに気をつけて取るのです。あまり面白いので、次の日も次の日も、取りに行きまし.た。今では家に五十ぴきぐらいいます。
 夏になれば、まだ/\面白いことがあるそうです。そのうちに、おとうさんやおかあさんとつりに行きたいと思つています。

 雪どけ水にザリガニか… へびのまくら(水芭蕉)は見たかい。

 羊蹄山も近いし、札幌では、出来ない遊びがあると思います。まだ雪のある脇方に来て、さく道(鉄さく)の動いて行く朝の青空を見ながら学校へ行く僕は、とつても楽しいです。
 今日、体育で、雪の山にマラソンに出かけました。山の上から、おとうさんの働いている、げん場が見えました。それから「あの山はムイネだよ」と伊藤君が教えてくれました。
 ああ、ムイネ登山も出来るんだ。

 やっぱり都会の子は文章もお洒落だな。「ああ、ムイネ登山も出来るんだ」という結びは、ちょっとかっこいい。学校の紹介文「脇方のこども」には、「脇方小学校には今二百六十人の子どもがいます。そのうち約二百人余は日鉄鉱業所と倶知安鉱山に勤めている家庭の子です」と書いてある。
 うーん。思った以上に街の子ばっかりだんたんですね。地ついての土地の子って、鉱山の特性からいってほとんどいない。畑はできませんからね。農家の子どもはあまりいない。だからなのか、図書館に来る「脇方」レファレンスが札幌からの人ばかりだったのは。(「脇方研究会」が札幌にはあるという噂もある…)
 この子らの親は脇方に定着するということはありません。数年すると、また別の営業所や札幌支店に転勤してしまいます。だからなのかな、子どもにとっては、この「脇方」時代は強烈な体験となって残るのではないでしょうか。あの大自然をまるごと身体に浴びて遊んでいた数年間。「あれはいったい何だったんだろう」と。

 脇方の隣町(←といっても間にすごい山がありますけど)「錦」出身の作家・峯崎ひさみさんもいろいろな「脇方」の逸話を語ってくれました。弟が高熱を出した時も、町の病院ではなく、脇方の診療所に背負って行った。たぶん医療技術も抗生物質も完備していたのでしょう。朝、背負われてぐったりして行った弟が、夕方にはピンピン一人で歩いて帰ってきたとか。小樽の専門学校に入った峯崎さん。学生寮で脇方中学校卒の子と同室になったけれど、その子は当たり前のようにテレビの点け方を知っていたとか。