Welcome to SWAN 2001 Homepage


 
 
かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



三月の京極 (一)
 
 

 京極町の町はずれ、羊蹄山の方に寄った所に樹齢三百年以上という目通りの周囲が約五メートル、高さ約二百メートルといわれるにれの大木があり、雄大な羊蹄を背景にしていかにも素朴な感じで通りすがりの者の旅情をなぐさめてくれる。この木のはえている所が、もと京極農場の事務所があった所である。
(洞爺村史/にれの木は知っている−洞爺村と京極農場)

 今回は、セオリーの「京極町史」を使わず、「洞爺村史」(昭和51年10月発行)を使って、藤村徳治の脇方鉱山発見を書いてみようと思います。二つの村の生い立ちがわかっていれば、それほど突飛な話ではありません。
 明治二十八年、羊蹄山麓原野の御料地を解除、殖民地として開放。虻田村の誕生。その時はまだ倶知安もニセコも虻田村の中の部落でした。翌二十九年四月、倶知安村が独立。さらに明治四十三年、倶知安村からわかれて東倶知安村が独立。それが現在の京極町なのですから。
 京極農場の頃は華族や資産家が殖産のため北海道で農場を経営することがブームのようになっていた時代でした。この京極家が北海道に農場をつくるには、その当時貴族院議員であった三崎亀之助が、京極家将来の安泰のため財産を作ってやろうとし、明治二十年から洞爺に入植して着実な成功を収めている三橋政之に相談をもちかけ、主として三崎、三橋、そしてあとで出てくるが児玉忠広のラインで具体化が進められていったのではないかと「洞爺村史」は言っています。(だから私が今住んでいる町の名も「三崎」なのです。「虻田郡京極町三崎**番地」って、なんか面白い…)
 
京極農場の開拓風景(橋本正二所蔵)

 洞爺村第一次移住団の団長三橋政之は、四国丸亀の城主京極家の藩士である。その城主であった京極高徳が明治三十年に字ワッカタサップ番外地で畑の目的で未開地二百四十万坪(八百ヘクタール)の貸付を受けて設立したのが京極農場である。

 そして、藤村徳治の登場。

 農場地の貸付を受けた京極家では、まず明治三十年洞爺村から藤村徳治、石原幸吉、白川小太郎ら五戸二十七名を開拓指導者として招いて開墾の実際を指導することにした。そして翌三十一年には石川、富山の両県から小作人を募集して入れ、いまの京極町内に初めて集落が形造られたのである。この開拓指導者を入れるという案は三崎−三橋の線で計画されたものであろうことは充分想像されるし、三橋自身の貴重な過去の体験から割出された大変有効な処置であったと思われる。

 写真には藤村徳治も映っているのだろうか。

 この開墾指導者の名前は先にあげた三名の外は不明なのであるが、当村にある除籍謄本でみると、白川小太郎は明治三十四年十月、石原幸吉は三十五年六月洞爺へ戻っており、五、六年たって指導者としての任務が終ると洞爺へ引揚げてきたものと思われる。ただ藤村徳治はそのまま京極に残るのであるが、この人は脇方鉱山発見者という別の功績がもうひとつあるのである。どうもどこの村史だかわからなくなってしまったので、ついでにここへもちょっと寄り道をしてみよう。

 ほんとに、そうですね(笑)

 徳二はいまの財田の和泉久義宅付近にいて、岩倉三代吉が明治二十六年、初めて自宅で青年教育を始めたときの夜学生でもあった。脇方鉱山の発見については、京極村史でおおよそ次のように述べている。,
 この鉱山の発見は明治三十一年に本村(京極)の京極農場の小作人である藤村徳治が発見したものである。その頃徳治は、たまたま日高のアイヌから、ワッカタサップ川の上流には鉱泉がふき出している所がある。自分もそこまでいったのだが、そこの岩の間に人間がくぐれるくらいもある大きな蛇のぬけがらがあったので恐ろしくなって逃げてきた。それで詳しいことは分らないが、とにかく川を二里(八キロメートル)くらいさかのぽっていくと川の岸に鉱泉が流れ出ていてそのあたりに鉱石のようなものがちらばっているはずだ。というのを聞いて三十一年の三月数人でここを探検し鉱泉と鉱石らしい露頭(鉱床の地面に出ている所)を発見した。そこでその鉱石を持って帰り、向洞爺の安藤市造にたのんで鑑定してもらったところ、これが沼鉄鉱(湖水や沼に堆積して鉄細菌の作用でできた褐秩鉱のこと)であることが分った。

 結局、この藤村徳治の大発見は、悪い仲介人(鉱山師・浅倉夕満)にひっかかって、その権利のすべてをなくしてしまいます。後日、浅倉〜橋本組〜三井鉱山と売りつがれるに及んで莫大な金額になっていったといいます。徳治は晩年口癖のように「あの時鉱山を全部売らずに持っていたら、今ごろこんな貧乏百姓せずにすんだのに……」と後悔していたといいます。
 この話、京極では有名な話です。そして、私もそう思う。知れば知るほど、脇方(ワッカタサップ)から鉄が出たために北海道のいろいろな歴史が変わっていったことを実感するのです。もしも鉄ではなくて、茅沼のように石炭だったら…、赤井川・轟のように金銀だったら…、あるいは、鉄が小樽・松倉鉱山から出たとしたら…、札幌・宮城沢鉱山から出たとしたら…と想像するのは少しだけ楽しい。(戦争まで絡んだ話ですので、「楽しい」は不謹慎かもしれないが)

 ところで。藤村徳治の遙か以前からこの地域は「ワッカタサップ(→脇方)」と呼ばれていました。名付け親は松浦武四郎。武四郎の地図にもくっきり「ワッカタサ」と書かれています。倶知安しかり、喜茂別しかり、近隣の多くの町村がこうしたアイヌ語地名を採用しています。にもかかわらず、どうして京極町は「脇方町」にならず、「京極町」になってしまったのか。その経緯も「洞爺村史」が説明してくれています。いやー、勉強になるなあ。

 京極という町は、その主要な場所は全部大小さまざまな農場でおさえられて、そのまわりに、山梨、福島、宮城、岐阜、群馬といったところの団体や個人の移民がとりまくという典型的な農場小作の手による開拓という形で進められた所で、その農場群の中で最も古いノレンと力をあわせて持っていたのが京極農場であった。大正八年京極線開通の折、東倶知安村終点の駅名を「京極駅」としたとき「権威を侍んで弱者を圧し、金資を悪用して細民を苦しめ、驕慢にして貪慾なる奸黠(かんかつ)の徒」とまで反対者にののしられても、頑としてその主張を通したことも、その是非はともかくとして、当時の京極農場のもっていた力がどれだけ大きかったかということを示しているともいえるかと思う。