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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



三月の小樽 (一)
 
 

 予備役海軍大尉郡司成忠に率いられた六十三名の報效義会の隊員が、五隻の短艇で隅田川の言問の渡しから漕ぎだしたのは、明治二十六年三月二十日朝のことである。
 墨田の長堤や橋という橋のうえには、黒山のような群衆がつめかけ、花火のなる空も裂けよとばかりの大歓声をあげ、日の丸の小旗を打ち振って、この冒険の首途(かどで)を祝った。
 なにしろ、一行は無謀にも手漕ぎのボートで、二千海里の荒波を乗り越えて、千島列島最北端の占守島(シユムシユ)へむかうというのだから、人々はまずその命知らずの豪胆のほどに、度胆を奪われたのだ。
(夏堀正元「北に燃える」)

 明治八年、日露間で締結された「樺太クリル(千島)交換条約」によって、得撫島(ウルツプ)以北の北千島は日本領土となった。とはいえ、「西南の役」など国内の重要問題の解決に追われた政府の北方政策が立ち遅れ、いつのまにか無人の島々になっていた。無人となった北千島には、ロシアなど外国の密猟船が横行し、一枚の毛皮が数百円もするラッコなどの海獣が乱獲され、日本の権益が大いに侵される事態にいたった。これを憂慮した政府は「屯海兵(とんかいへい)」制度を打ち上げる。読んで字の通り、北海道「屯田兵制度」の千島版。屯海兵を定住させて漁業にあたらせながら、いったん有事の際には銃をとる、という構想であった。これに呼応したのが郡司成忠。そして、報效義会。

 隅田川の船出。東京から便乗してきた郡司大尉の実弟である二十六歳の露伴・幸田成行は、ひとりひそかに涙していた。露伴はのちに、そのときの模様をこう回想している。
 「……それからの事である。カッター数隻を払下げて、眇(べう)たるもの以て杳(よう)たる千島に行かうといふ企が生じたのは。自分は呆れた。世人は喝采した」と。
 あまりにも貧弱な装備で北千島・占守島に送り出される兄の姿に露伴は涙したのだった。

 ――とどのつまり、幕臣の忰で、薩閥の海軍では出世の見込みのない郡司大尉の狂ったような功名心に、おれたちは利用されているだけではないのか。

 川野辺一馬もまた、この無謀きわまりない北千島行に怖れを抱いたひとりだった。一馬は船が択捉島の沙那港に上陸した時、地元漁民の小舟を盗むと、根室をめざして漕ぎはじめる。濃霧の海を二日間彷徨ったあげく辿り着いたのは霧多布の海岸だった。逃亡者・川野辺一馬の数奇な人生がはじまる。

 小樽に上陸した川野辺一馬と谷村弥三は、早々にして町に溢れる活気に圧倒された。
 整備中の港の岸壁には、幾艘ものハシケが舷を接し、向う鉢巻に印絆纏の荷役人夫たちが、陽に灼けた顔で、怒鳴りあうような大声をあげながら、忙しげに働いていた。
 ゆるやかな傾斜の海岸通りをすこしのぼっていくと、三井銀行はじめ有名銀行の堅牢な建物や、海産物問屋、回船間屋などが軒を接し、商業の町小樽の威容を誇示しているようであった。
 砂利道には、重そうな荷物を運ぶ馬車が通り、
「ハイヨオ!」
 というかけ声もろとも、一馬たちの横をかすめるように、車輪の音も荒々しく駆けぬけていった。
 通行人も多く、みな大切な所用ありげに神妙な顔つきをして、冬陽の白く照るなだらかな坂道を往来していた。
「ウム、この町の発展はたしかにめざましいな」
 数年前の小樽を知っている弥三が、低くうめくようにいって、まわりをキョロキョロ見まわしている一馬のほうを振りむいた。
「ここなら、どうやら永住できそうだな」

 物語は北海道を巡り巡って、ついに小樽へ。

 というか、ようやく小樽へ…という感想もちょっとありますね。以前、美国の浜から始まった物語があれよあれよという間に中国大陸に渡って中共話に及んだ作品を読んだこともあり、はたして、隅田川べりの三月で始まったこの物語がどこに行き着くのが不安でもありました。(「五寸釘寅吉」が登場してきたあたりはヒヤッとしたよ…)

 ま、終点・小樽は順当か。

 あの、民衆の英雄「毛沢東」(←死語)が出てくる小説が妙に懐かしかったりする。