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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



一月の小樽 (一)
 
 

 五、明治、大正期における量徳三大異変
 開校以来順調に発展して来た本校に明治、大正期に於て次の三大異変があった。
(一) 明治十四年五月二十二日の小樽繁華街の大火
(二) 明治三十四年一月三十一日の量徳学校校舎全焼
(三) 大正二年十月二十日、住吉貞之進校長の死
(「量徳百年」より)

 すごいですね。三大異変の内、二つが火事ですよ!

 小樽市立量徳小学校。校門の脇に「小樽教育発祥之地」碑が建っている。

 量徳小学校は 小樽最古の学校であり 「小樽教育発祥の地」とされる。
 資料が少なく 量徳小学校の詳しい歴史はわからないが, 1872(明治5)年の学制発布に伴い その翌年, 小樽地区ではこの地に「小樽郡教学所」, 手宮に「高島教学所」が開設され, その後も 銭函・忍路・朝里・祝津 などに教育所が開設されていった。
 1877(明治10)年には 小樽教育所を「量徳学校」と名称を変更し, さらに「尋常小学校」「国民学校」を経て太平洋戦争後「小樽市立量徳小学校」となった。
 1975(昭和50)年ごろには 現在の校舎を新築。 2002年に 量徳小学校は開校130周年を迎えた。
(HP「発祥の地コレクション」より)

 付け加えるならば、

 量徳小卒業生の香山リカさんが講演 閉校イベント12/23
 来年3月に閉校する小樽市立量徳小学校の卒業生で精神科医の香山リカさんが、12月23日(金)9:00から、同小体育館で開かれる閉校記念事業イベントで講演する。
(HP「小樽ジャーナル」 2011/12/12)

ですかね。量徳小学校、今年三月で閉校です。
 小樽市の新市立病院建設構想。用地は、当初、この量徳小跡地を予定していましたが、PTA、同窓生などの大反対があって、市は(待ってましたとばかりに)第2候補地の築港地区へ変更。当時の市長は、ゴリ押しとも(誘導とも)みえるような手法で、この「築港移転」案を押し進めたものですが、今度は「運河論争」クラスの市民の反対運動にあって、万事休す。迷走、妄動の果てに、ついに「量徳小廃校」案に戻ってくるというお粗末。
 この話、ほんとにお前たちは「小樽商人の心意気」をいうほどの経済感覚があるのかよ…というくらい面白い話なのですが、今回の「量徳小」話題からはどんどん離れて行くので、ここでお終い。後日、日を改めて。閑話休題。明治三十四年一月三十一日の大火です。火元は、なんと量徳学校。

 明治三十四年一月三十一日、不幸にも校舎全焼の大惨事が起きた。当日は好天であって高等科生徒は第三時の授業を受けるべく他の教室へ全員移動した。ストーブの火は勢いよくもえていたため不幸にして煙筒がはずれて火は教室を焼き、煙をみつけた時には当時の消火設備では手の施しようもなくなっていた。
 学校長の指導のもとに全職員は先ず児童の全員を安全な場所に誘導し避難させ、然る後消火や重要書類、器物の搬出につかれた。
 校下の父母は学校に馳けつけ、先ずわが子の安否を確認してから先生方の指揮に従い机、腰掛などを搬出した。然し開校以来の輝かしい記録をもつ本校校舎は灰儘に帰し午後一時二十分にやっと鎮火した。
(「量徳百年」より)
 

 で、こちらが、明治三十四年八月七日に竣工された新校舎です。

義務教育年限延長実施と共に、明四十一年度よりは尋常科六学年となり、高等科は二学年として、現在尋高併置九校中第四学年まで設置せる稲穂、同女子、量徳(れうとく)、同女子花園の五校にのみ併置し、他の五校は単に尋常小学校とする由
(小樽日報 明治四十年十月十五日・第一号/明年度の区立小学校)

 啄木の言っている「量徳小学校」とは、この校舎ね。ここは、「小樽教育発祥之地」であるとともに、日本初の「病院図書館発祥之地」でもあるのです。よーく勉強して、新病院、建てなさいよ。