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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



十一月の小樽 (二)
 
 

 2008年11月8日の夕方、勤めを終えて戻ってきたら、大ニュース。

【小樽】 明治時代、石川啄木が記者として勤めていた「小樽日報社」の建物が写った写真が小樽市総合博物館で発見された。通説とは異なり、モダンなたたずまいの二階建ての大きい家屋だ。これまでは、啄木研究家が撮影した民家のような家屋が小樽日報社とされてきたが、建物の様子が当時の啄木の手紙の記述と符合せず、謎だった。新たな写真の発見は今後の啄木研究に一石を投じそうだ。
(北海道新聞 2008年11月8日夕刊)
 
 
(発見された小樽日報社)

 大きかった。でかい「一石」でしたよ。だって、今まで信じてきた「小樽日報社」と全然ちがうんだもの。

社は新築の大家屋にて、万事整頓致居、編輯局の立派なる事本道中一番なる由に候、活字の如きも新らしきもの許り三十万本も有之、六号だけにて九千本と申候へば、資本の潤沢にして景気よき事御察し下され度候、
(石川啄木/明治四十年十月二日 小樽より 岩崎正宛書簡)

 あの写真はいったい何だったんだ…

 建物は明治41年4月に小樽日報が廃刊した後、様々な用途に転用されたが大正15年、火災により全焼した。その跡地に建ったのが、これまで小樽日報社として紹介されてきた建物である。その原因は昭和10年冬、北海道に啄木の足跡を調査に来た吉田孤羊が翌年刊行の《啄木写真帖》に、火災後に建てられた建物の経緯を説明せずに掲載したことで、全国に誤解を生じたのではないかと考えられる。
(小樽なつかし写真帖・第52号/小樽啄木会会長・水口忠氏)

 また、吉田孤羊か…
 あるいは、北海道の啄木ファンの中には、「これも吉田孤羊なのか!」といった反応を示す人もいると思いますね。なぜなら、「小樽日報社」写真なんて問題にもならないくらいの大「仕事」を彼はやっているから。

 昭和二十六年秋、市立釧路図書館に(旧「釧路新聞」が)寄贈された時、既に啄木に関する記事がズタズタに切り抜かれていた。このことについては、昭和六十一年二月一日付釧路新聞の「土曜時評」<釧路新聞の中の啄木>に私は詳しく書いた。
 現存の旧釧路新聞を再調査したところ、明治四十一年一月二十一日から四月五日までの七十六日間で、二十六ヶ所が切り抜かれたり、全ぺージがなくなったりしている。二月五日付と二月七日付は全ぺージがない。二月十五日と二月十八日は三面(裏四面)が破り取られている。三月十九日の切り抜きは啄木以外の記事と思われる。二月五日と七日は最初から保存されていなかったと思われる。両日に啄木の記事が掲載されたかどうか、今となっては知る術がない。現段階では、啄木に関する記事は二十三ヶ所切り抜かれたと判断して間違いはない。
(北畠立朴「啄木に魅せられて」/旧釧路新聞の切り抜き調査について)

 もう、誰か、わかりますね。

 さて、誰が切り抜いたかについては断定することはできないが、関係者の話を総合すると、昭和三年に北海道新聞釧路支社を訪ねた吉田孤羊氏が十日間ほど釧路に滞在し、旧釧路新聞に掲載されている啄木に関する記事を取材して行ったとのこと。その直後旧釧路新聞を見たら、あちこちが切り抜かれていたとの由。
(同書より)

 これは、じつに微妙な領域の「犯罪」と感じます。市立釧路図書館所蔵の旧「釧路新聞」を吉田孤羊が切り抜いて持っていったら、これはもう文句なしの犯罪、窃盗でしょう。でも、これはちがう。図書館に寄贈される前の、北海道新聞釧路支社時代の出来事なのです。
 そもそも、旧「釧路新聞」はお宝でも何でもありませんでした。北海道新聞釧路支社の天井裏にウズ高く積まれてあったゴミだったのです。ホコリまみれの古新聞の山を「邪魔になるから」という理由でクズ屋に売り払ってしまったのは釧路支社自身でした。
 幸い、ある有力者の目にとまり、クズ屋から買い取られ、さらに、当時東北海道新聞(現釧路新聞)の編集部長であった遠藤利雄氏の手に渡ります。遠藤氏は「このような貴重な文献は私すべきでない」と判断し、某氏の了解を得てこの古新聞を市立釧路図書館に寄贈したというのが事の顛末です。
 だから、吉田孤羊のやったことは犯罪でも何でもない。見ようによっては、チリ紙の原料になる寸前の貴重な「啄木」資料を救い出した立派な研究者とも言えるのかもしれないのです。(ご存じ、「小樽日報」はこうして見事にチリ紙になったのだから…)

 けれども、なにか釈然としない。吉田孤羊に釈然としない。なぜ、吉田孤羊は、自分に旧「釧路新聞」を切り抜く資格があると思ったのだろう。誰よりも啄木を知り、啄木を愛しているのは俺だ!との自負でもあったのだろうか。でも、たとえそれほどの「啄木物知り」であったとしても、吉田孤羊に旧「釧路新聞」を切り抜く権利なんかあるのか?
 昭和10年なら、まだ高田紅果は小樽に生きています。なぜ「あれが小樽日報社ですか?」と紅果に一言聞くことができないのか。昭和3年なら、7月に市立函館図書館が開館したばかり。なぜ、岡田健蔵に「釧路新聞が揃いで残っている」ことを一報しないのか。
 私には、吉田孤羊は、「啄木」に没頭するあまり、宮崎郁雨をはじめとする「啄木を繞る人々」の人生すら目に入らなかった大変かなしい人に見えます。「啄木写真帖」は、かなしい。