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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



十一月の石狩
 
 

午前九時過ぎに電話がかかり、傍らにいたらしい同法人の副理事長だった藤村が出た。「みっちゃん(こんな親しげな呼び方は初めてだった)、すまない」と地獄の底からうめくような声でいった。私はよく覚えていないが、その沈んだ声の雰囲気から、なぜか怒りは湧いてこなかった。私は彼に「大丈夫か、考古学が好きなんだからまたやれたらいいよな」というようなことを言ったかと思う。
(岡村道雄/旧石器遺跡「捏造事件」)

 これが藤村新一と交わした最後の言葉。藤村の旧石器遺跡「捏造」が発覚した2000年11月4日夜以降、岡村道雄氏の人生も「捏造」追求の嵐の中に突入して行く。騙された怒りに日本中が沸騰していた。たとえば、北海道。つい数ヶ月前、私たちはこんなにも喜んでいたのだ。

新たに石器28点
新十津川 総進不動坂遺跡 本州の物と酷似
【新十津川】 昨年八月、道内で初めて前期旧石器時代(十二万年前以前)石器が出土した空知管内新十津川町の「総進不動坂遺跡」で、札幌国際大などでつくる調査団(代表・長崎潤一同大助教授)は五日までに、石器二十八点を新たに発見した。前期旧石器時代の石器がこれだけ大量に見つかったのは道内で初めて。本州で出土した同時代の石器と種類や材質が酷似しており、調査団は「当時、東日本と北海道で原人同士の交流があった可能性が高まった」としている。
 調査団は同大と東北福祉大、東北旧石器文化研究所が合同で組織し、今回は八月二十八日から調査を進めていた。
(北海道新聞 2000年9月6日)

 「原人同士の交流」か… 今となっては、まさに悪夢だ。
 2000年は浦和レッズがJ2に落ちてきた年。この年は、コンサドーレ札幌と浦和レッズがJ1に上がるのだけど、そんな昇格争いに浮かれた日々の中に、そういえば、こんな「ゴッドハンド」藤村氏の大活躍もあったことを懐かしく思い出す。たしかに私たちは浮かれていた。

――ねつ造は事実か。
「魔がさしてやった。事実は認めないといけない。罪を償いたい」
――ねつ造したのは具体的にはどれか。
「上高森遺跡から今年出土した六十五点のうち、六十一点を埋めた」
――新十津川の総進不動坂遺跡でもねつ造したのか。
「(出土した石器)全部を埋めた」
――約六十万年前の地層から出た、原人が埋ったとみられる遺構もねつ造か。
「遺構は本物だ。(人為的に)つくりようがない。石器だけをなんとかしたかった。」
――なぜやったのか。
「上高森遺跡が小鹿坂遺跡に比ぺ成果が劣っていたので、焦っていた。何とかしたかった」
――埋めた石器はどこから持ってきたのか。
「宮城県を中心に集めた自分のコレクションを持ち出した」
――いまの心境は。
「こういう結果になったのだから、もう考古学ができないかもしれないが、自分から事実関係をはっきりさせ償いたい。小心者だから、ほかでは(ねつ造は)やってない」
(同記事/藤村氏との一問一答)

 しかし、これもウソ。この時点で、新十津川町・総進不動坂と宮城県の上高森遺跡だけだった「捏造」は、事態の解明につれて、とてつもない規模の「捏造」実態へと広がって行く。なんと25年前。大学助手だった岡田氏がアマチュア研究家たちと発掘作業をともにした座散乱木(ざざらぎ)遺跡の時代から、もう藤村の「捏造」は始まっていたのである。

 もしもこの捏造事件に救いがあるとすれば、それは、十年の歳月を経て岡村道雄氏の「旧石器遺跡<捏造事件>」が出版されたことかもしれません。自らを「小心者」と言い抜けた藤村新一という人間の不可解さが、私たちにもよくわかるようになったから。

 そこで私は、本当の私たちの仲間として対等に専門的なことができるようになり、一人立ちして欲しいと思った。(中略) 実測図作成の習得訓練は、専攻の学生でも実習を何回もやって普段も練習し、一人前になるには半年くらいかかる根気のいる訓練だが、藤村はすぐに飽きてしまっていた。それならば何か、彼にも興味が持て、一生懸命になれる専門的なことを見つけられればいいな、とその後も思い続けた。今にして思えば、結局彼は、石器にも、遺跡にも、難しい学問的な興味はなく、うまくばれないように石器を埋め込むための情報を得、手口を考えるかが重要だったのだろう。彼は石器を発見することを「スコアを上げる」といっていたらしいが、彼にとって楽しかった考古学は「自分で埋め込んだ石器を発見する」真似ごとの考古学だったのだろう。
(岡村道雄/旧石器遺跡「捏造事件」)

 なまけ者。そして、自己顕示欲。私は、盗癖が人格にまで絡みついた人間にけっこう深刻な被害を受けたことがあるが、こういう虚言癖タイプの凄玉には幸いにして関わり合わずに済んだ。運がよかったのかもしれないと思った。けっこう筋金入りだぜ、この人…

 本書を通読していただければご理解いただけると思うが、私がまだ宮城にいて初期の「捏造遺跡」の発掘調査を行っていたころ、藤村は、相沢の『岩宿の発見』、芹沢や私の「旧石器編年仮説」などを参考・モデルにして捏造していたらしい。実際、捏造設計図、モデルがないと、具体的な捏造作業はやりにくいだろう。彼は、私たちの話を聴き、論文などの図や写真を見て、見よう見まねで何とか私たちの目を欺ける範囲で捏造を繰り返してきた。見抜けなかった、騙されたのは、「捏造成果」が期待通りの大成果であり、旧石器研究の権威も認めてお墨つきをくれたし、少々の矛盾や疑問点を批判的・疑ってみる心理と観察眼が十分でなかったため、彼は「騙しやすい、甘い研究者たちだ」とほくそえみながら捏造していたのだろう。
(同書より)

 世の中には、「岩宿の発見」をこんな風にしか血肉にできない人間がいる。

 現在の藤村は再婚して姓を変えて働き、落ち着いた生活を送っているという情報を得た。私は意を決して、二〇〇九年の十二月某日、東京駅で新幹線に乗り込んだ。
(同書より)

 そして、私がいちばん恐ろしいと感じた場面が近づいてくる。

 右手の指がないのに気づいてどうしたのかと聞くと、入院中に裏山でナタを三〇回叩きつけて切ったと話した。その時の様子や、手拭とタオルを巻いて病院に帰り、部分麻酔で処置された状況・経緯を説明した。その表現は生々しく、仔細であった。右手が二度と悪さをしないようにと、皆への贖罪を込め、忘れないようにするためにやったとその理由を話した。
(同書より)

 雑談で杯を重ねながら、頃合いを見計らって私は「ところで本題に入るけど」と切り出した。「座散乱木のことだけど」と続けて、『座散乱木遺跡発掘調査報告書皿』の冊子を取り出して巻頭カラー写真を見せた。すると藤村は「ウーン」と言って考え込む仕草をし、「分からん。覚えてない」と小さくつぶやくだけで、話はすぐに途切れてしまった。座散乱木という名前さえ、記憶がないと話したことには、正直驚いた。
(同書より)

 怖い本だった。