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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



九月の札幌 (一)
 
 

 「春香山荘」つながりで本郷新の本をあれこれ読み直していて、たいへん興味深い記述にぶつかりました。これです。

 子供のころの一番の思い出は、小学校四、五年ごろ、大正四、五年(一九一五、六年)当時のことです。おやじの商売は種物、苗木、農具といったもので、小学校一年ぐらいまでは札幌の南一条西一三丁目に家がありました。その後四、五年生のころ円山南斜面のふもとに移りました。小学校はすぐ隣の師範の付属。周囲には野菜、果樹園、花畑と絵にあるような豊かな自然の風光がありました。
(北海道新聞社編「私のなかの歴史」第2巻/本郷新)

 えっ!、「南一条西一三丁目」。

 慌ててフィールドさんのHPに駆けつける。札幌第一農園。札幌市中央区「南2条西13丁目」か…

 試しに、ヤフー「本郷新×札幌第一農園」で検索してみると…

 札幌で育ち東京で学ぶ本郷新とはどんな彫刻家だったのでしょう。生誕100年の際札幌彫刻美術館学芸員の井上みどりさんが発表した論文や年譜などからたどっていきます。
 1905年(明治38年)、現在の札幌市中央区北3条西2丁目で本郷は生まれました。父は島根県出身で札幌農学校(現北海道大学)を卒業し、札幌興農園を経て独自に種苗園の経営を始めます。母は山形県鶴岡市出身でスミス女学校(現北星学園大学)を1期生として卒業しました。本郷は子どものころから北辰教会(現北一条教会)に通い、自由な気風の中で育ったといいます。
 札幌師範学校附属小学校(現北海道教育大学附属札幌小・中学校)から札幌第二中学校(現札幌西高校)に進学しました。二中は北3条西19丁目にありました。また父親の経営する採種場が円山近辺にあって、そのあたり一帯が遊び場だったそうです。札幌のアトリエを市街の西方に構えたのも、少年時代の原体験の場がそこにあったからなのでしょう。
(カムイミンタラ 2007年05月号/特集:本郷新)

 「カムイミンタラ」がヒット。(相変わらず「カムイミンタラ」の情報精度は凄いなぁ…)

 「札幌第一農園」や「北一条教会」関連(どちらも田上義也の設計)の情報はこれからも出てくると思うので急がないことにします。ここでは、ちょっと変化球。「二中」話題。

 二中時代は「めばえ会」という絵画部に入りました。一級下の船山馨(小説家、故人)や伊福部昭(作曲家・東京音大学長)も加わって来て、皆でよく風景など描きました。二中にはね、六年先輩に彫刻家になった山内壮夫(故人)がいたし、転校する前の本郷新(彫刻家、故人)も通っていたんですよ。後にそれぞれ別の道を歩むことになった伊福部、船山、私の三人が、同時期に同じ美術サークルに属していたなんて、面白い出会いですね。伊福部の青のかった静物画のことは今も記憶にあるし、船山も大変上手な人で、私が後に彼の小説の挿絵を描くようになったとき、「お前、自分で描けよ」と言ったくらい。若さの覇気とでもいうのでしょうか、中心街の画廊で展覧会をしたこともあるんですよ。
(北海道新聞社編「私のなかの歴史」第5巻/佐藤忠良)

 本郷新、山内壮夫、佐藤忠良という大物彫刻家がいた「二中」というのは、学校の中では有名な語り草(私も「二中」です)だったんですけどね。「だから、どうした!」という気もするから、今までこういう自慢話(?)を使うことはありませんでした。でも、今回なら、ま、いいだろう…と思ってます。「札幌第一農園」自体がテキサス・ヒットみたいなもんですから。
 
 

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