Welcome to SWAN 2001 Homepage


 
 
かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



九月の小樽 (三)
 
 

 春香山麓に「芸術要塞」
 彫刻、立体造形…作家56人が野外展
 春香山麓の約3万平方メートルの敷地を会場に、道内の芸術家56人が彫刻や立体造形などを出品する野外展「ハルカヤマ芸術要塞2011」が9月25日にオープンする。今月20日には、芸術家と地元住民による交流会が開かれ、制作中の作品が紹介された。
(北海道新聞 2011年8月27日 小樽・後志欄)

 発端は北海道新聞の小樽後志欄に載った「ハルカヤマ芸術要塞」の記事でした。その中で、会場となる春香山には今でもシーサイドホテルや本郷新アトリエが残っていることがふれられていました。やはり、まだあったんだ!

 ハルカヤマ芸術要塞HP

 そして、看板。他日、国道五号線の春香を通った時に「ハルカヤマ芸術要塞」の看板が目に入ったのです。あそこだ!
 でも、その日はシーサイドホテル跡を見つけるにとどまりました。本郷新アトリエまであと百メートルほどにも近づいていたのですが、その最後の道筋がわかりません。アトリエもシーサイドホテルみたいに、屋根が落ちた廃墟みたいになっているのかな…とちょっと暗い気持ちになりました。
 そして、数日後。京極へ戻る前に、もう一度だけハルカヤマ…と出かけたのです。運が良かったとしか言いようがない。芸術要塞会場予定地に人影が! その人が芸術要塞の呼びかけ人・渡辺行夫さんだったのです。最後の道筋を聞いて、難なくアトリエ跡に到着することができました。

 廃墟ではなかったことにひと安心。屋根こそかなり危なかしい状態(渡辺さんの意見では「あと2、3年」とのこと)になっているものの、建物の中に入ることもできることには興奮しました。田上作品の内部を見ることができたのは、小熊邸、坂牛邸に続いて三軒目なのです。じつに感無量。

 一九六四年の初冬、再び本郷さんの来訪をうけた。春香山々麓のスロープに一、〇〇〇坪の敷地を手に入れたので、アトリエと住宅の設計依頼だった。本郷さんはニコニコとほほえんでいた。日本海を眼下にのぞみ、巨大な石狩平野の緑と砂浜。春香山を背にした景観に私は衝動され、この大自然から教えられて、夏よりも冬の風雪や突風を割り切るために、正方形の単純なプランとした。一階から二階へ屋根を伸ばし、深い軒の翼で壁体を守り、石狩平原の景観を抱きこみ、ダイナミックな自然と対決する強じんなコンポジションとした。
(札幌市教育委員会編「札幌の彫刻」より/田上義也「本郷新と交友の断想」)

 そして、「本郷新と交友の断想」に載っていた上の写真。「春香山荘(昭和43年)」とある。建ってから、すでに3年。アトリエの周りもきれいに整備され、田上作品の必殺技「傾斜」も一段と威力を増している。たしかに。

 階下に大小のアトリエと研究室、食堂、キッチン、階上に二つの寝室、部屋の中心軸にスパイラルの円形階段と、大きなマントルピースを配置した。インテリアの家具調度は本郷好みにつくられた。本道から日本列島の果てまで制作多忙の本郷さんは、このアトリエを春香山荘と名付け、心の安らぎと思索の場とした。さらに待望のテラコッタの制作に明けくれたし、寸暇を惜しんでは執筆、散策、釣場を訪ね、好漢本田明二君と連れ立って釣をたのしんでいた。
(同書より)

 しかし、この建物がつくられた昭和40年(1965年)当時、本郷新は59歳。田上はなんと66歳なんですね。戦後の田上は、もはや一建築家ではなく、同年受けた北海道文化賞でもわかる通り、北海道を代表する文化人なわけです。執筆や講演で大忙しだったはずなのに。
 これほどの建築作品、田上以外の何者もこれをつくれないであろう建築作品を残していたというのはとても意外なことでした。田上の戦後作品というものをもう一度考え直さなければならないと本気で思った次第です。
 

 こちらは「本郷新彫刻集」の年譜に出てくる写真。「本郷新と交友の断想」の写真と併せて見ると「春香山荘」の様子がたいへんよくわかります。建ったばかりの頃なのでしょうか。キャプションには「1965年 重子夫人と春香山前庭にて」とある。
 

 さらに、北海道新聞社編の「私のなかの歴史・第2巻」の「本郷新」の章に載った写真です。キャプションには「小樽・春香山に建てたアトリエから散策に出る本郷さん。昭和40年ころ」とある。

 いやー、五十年近くの沈黙の果てに現れ出でた「本郷新アトリエ」。なんとかしたい。ぜひとも、なんとかしたい。これを、ボサーッと瓦礫にもどしてしまうような間抜けな街に住みたくはない。