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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



九月の小樽 (一)
 
 

 小樽には学校教育発祥の地碑が二つあります。ひとつが、量徳小学校校門脇の「小樽教育発祥之地」碑。そして、もうひとつが、朝里の「いなりの坂」を降りたところにあるちどり公園の「朝里学校教育発祥の地」碑です。その碑文。

  古き器に
     新しき
  教えを盛りし
     朝里校
        小樽市長 新谷昌明

 続いて、解説文が入ります。

 朝里における学校教育の草創は,文久ニ・三年の頃ニシン漁で沸く朝里浜で漁舎を仮泊所としていた松前藩士が,付近の子供達を集めて手習を教えたのが始まりである。
 やがて,明治二年九月戊辰の役で降伏した会津藩士数百人が朝里浜に上陸し分散して漁家に滞在したが,その中で漢字に造詣の深い渡辺竹八と名乗る武士が寺子屋を開いて四書五経を教えた。
 そのうち小樽の隆盛に伴い次第に朝里の人家も増加したので,明治九年七月漁場の親方亀谷藤次郎が小樽郡長に教育所開設を願い出て八月認可となり,その秋十一月朝里村十七番地に三十五坪の校舎を建て,東野義秀校長を初代とする朝里教育所が開設された。それがこの地である。
    平成九年五月二十四日建立
      小樽市立朝里小学校
        開校百二十周年記念祝賀協賛会
                  堂楽 書

 ふーん。ここにも、会津藩かぁ…

 年号が明治に改まってまだ間もない明治2年9月のある朝、朝里の沖に、何十隻もの船が前触れもなく出現。船上には、刀を腰に差した大勢の武士の姿が見えます。浜は騒然となりました。
 続々と浜に上陸してきたのは、元会津藩(現在の福島県)の藩士でした。彼らは戊辰の役で官軍に敗北し、明治政府から北海道に移住を命ぜられたのです。その後も、藩士とその家族の上陸は続き、総勢約3000人にもなりました。
(小樽市HP「小樽・坂まち散歩」/いなりの坂)

 東日本大震災。そして、福島第一原発。戊辰戦争から一世紀を越えて。会津の人たちがたどってきた歴史は様々な場面で<この国>のかたちに影響を与えていると思う。漱石は「坊っちゃん」で会津っぽの山嵐を登場させた。啄木を殴った小林寅吉は会津の出身者であった。そこには、なにか意味はある。

 これら藩士の中には、後に小樽初の代書人(現在の行政書士)となった渡辺竹八(わたなべたけはち)のように、朝里の漁師の子どもたちを集めて寺子屋を開くものも現れました。
 その後、明治4年に藩士の多くは今の余市町に集団移住しましたが、後に量徳小学校となる小樽教育所の志賀熊太郎(しがくまたろう)所長のように、小樽に留まって教育者となった藩士も多くいました。これが小樽の教育の源流の一つとなっているのです。
(同HPより)

 ほんとうは、朝里郷土資料調査研究所が編集した「いなりの坂」(小樽・朝里のまちづくりの会,2002.11)を使うのがいちばん適切だと思っているのですが、ただ、記述が詳細すぎる。たとえば、先ほどの、朝里の浜に会津藩士を乗せた船が姿をあらわした場面。「いなりの坂」では、こうなります。

 明治二年(一八六九年)九月のある朝未明のこと、寝呆け眼で海を眺めた朝里の浜に住む漁師の一人は、腰を抜かさんばかりに吃驚した。と言うのはその頃稀にではあるが、内地から海産物取引のため訪れることのある弁財船や大和船がそれも一隻や二隻の話でなく、沖合一面にずらりと何十隻となく並んでいるではないか―漁師は自分の眼を疑うかのようにもう一度両眼をこすってよく/\見ると、その弁財船にはどの船にも大小を挟んだ大たぶさの武士達が乗り込んでいて、何やら陸岸(おか)を指して声高に話し合っている。「わあ!大変だ!!戦争だ!!戦争が始まったぞーっ!」漁師は喉が張り裂けんばかりの大声を出して浜の家々を走り廻って起してあるいた。その大声で睡気(ねむけ)を覚まされたあちこちの家からも、漁師や家族達が外へ飛び出して海の様子を見ると、先刻の漁師と一緒になって叫び喚いて走り廻った。
 漁師達が驚いたのにも訳があったのである。と、言うのは前の年、例の箱館戦争が勃発してその敗残兵が遠く小樽内まで敗走し、人心頓(とみ)に動揺、心胆を寒からしめたのと、疵金権平一派の小樽内騒動からまだ余燼さめやらぬ頃であったからである。
「これは何事ぞ!急いで早打(はやうち)を飛ばして本府へ報告せにゃならん」
(朝里郷土資料調査研究所編「いなりの坂」)

 と、かように長い… なかなか引用には適しません。この本は市立小樽図書館にありますので、ぜひ各自借りてお読みください。いつも、郷土愛に溢れた力作とは思っているのですが。

 蛇足ですが、私がこの「スワン社資料室」でとりあげる本は8割が市立小樽図書館の所蔵本です。残り2割が、小樽以外の図書館やインターネット上の閲覧可能な作品。稀覯本や未発表資料をありがたがったり、自慢したりする趣味は私にはありません。文学館のガラスケースに閉じこめられた本を私は可哀想に思っている。読むことができない本に何の意味があるのかと。表紙眺めて、作家を理解したつもりになってる人間を馬鹿だと思う。