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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



八月の後志 (二)
 
 

小谷 木田さんの絵について特色をどう……
島本 そうですね、北海道の生んだ画家らしい人の絵ということでしょうね、それで最初に執筆を依頼したのが、あの「リンゴ」なのです。カレンダーに使いました。
田上 このリンゴは大きな力強いタッチで、生命感にあふれ、果実をとおしてもっと大きな世界が描かれているという印象だった。頭取の制作依頼の意図も、北海道の代表的な果実を通して北海道らしい壮大な生命感のようなものを期待したのではなかったかと思った。
島本 あのヒゲの人がいましたね。
小谷 この雑誌の創始者のなかがわ・つかさ君ですが昨年の夏、亡くなりました。なかがわ君と木田さんにはエピソードがあります。戦後のことですが東京で、北海道に木田さんという画家のいることを知ったなかがわ君は、木田さんに逢いたくて来道し、自分を北海道に住まわせたのは木田さんがいたからであると云っていました。木田さんも、なかがわ君も画家は一日に数枚も描くようでなければ作家とはいえないと、同じことを云っていました。最初の個展の会場で木田さんにお会いしたときも、「ピカソのように制作するのだ、あなた方若い人に負けない勉強をしますよ」と、云われたことがありました。
(「美術北海道」第4年通巻10冊/コレクター訪問―島本融さん<北海道銀行頭取> ※)

 木田金次郎の良きパトロンだった道銀の頭取・島本融。その島本が「あのヒゲの人」といっているのが「なかがわ・つかさ(本名−中川良)」です。「なかがわ・つかさ」とは、何者?

 昭和27年8月21日、岩内町に住む画家・木田金次郎のもとにひとりの青年が訪ねてきます。茨城県出身であり、早稲田大学でフランス文学を専攻したという彼は、更科源蔵の紹介状を持ち、方言の勉強のために北海道を旅行中なのだという。これが、若き日の「なかがわ・つかさ」。
 後日、なかがわは、この木田を訪ね過ごした二日間を次のように書いています。

 興奮し、それから憧憬した。北海道という自然、木田のような画人が苦もなく育った風土に。同じ空の下で、こんなにも人間が生きて見える土地がどこにあっただろうか。関東にも関西にも、そして九州にもなかった。
(「月刊さっぽろ」第37号、1962年3月)

 なかがわは北海道永住を決意する。木田金次郎を育んだ北海道への思いとその風土のもつ可能性が、彼をこの地に強く結びつけたのである。つまり、美術評論家「なかがわ・つかさ」の誕生。
 
(後列、右から3人目がなかがわ・つかさ)

 その後、木田の紹介で室蘭の画家田中祥三のもとに5日ほど留まったのちに帰郷。翌年10月には、北海道の雪と木田金次郎の札幌での初個展を見たいと田中のもとを再び訪れた。なかがわは、木田金次郎が有島武郎の「生まれ出ずる悩み」のモデルとしての面ばかりがクローズアップされ、実作品がほとんど紹介されていないことを惜しみ、東京での個展開催を根回ししていたほどであっただけに、札幌での初個展はどうしても見逃すわけにはいかなかったのだろう。また、この来道に先立って、五百冊余りの書籍と寝具を事前に田中のもとに送りつけていたところをみると、この時すでに北海道に永住する決意を固めていたと思われる。木田の初個展が丸井今井デパートで開かれた11月14日から19日の会期を挟んで、なかがわと田中は他の人たちとともに本展事務所であった銀嶺荘に泊まりながら、ポスターの地張りなどを手伝いつつ札幌で過ごしている。個展の集合写真には、スーツを着込み、ヒゲのないなかがわの姿が写っている。
 その後も故郷に戻ることなく、再び室蘭で田中一家のところに40日ほど世話になった後、12月末には単身、札幌に移り住むことになる。
(札幌美術展「さっぽろ・昭和30年代」カタログより)

 「五百冊余りの書籍と寝具」か… こういう活きのいい奴、最近見なくなりましたね。

 なかがわのヒゲは、若造とナメられては困る!ということで生やしはじめたものらしい… なかなか面白い人だ。

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※ この資料は、木田金次郎の思い出を関係者各人が語るという本、濱上俊治監修,菅谷誠ほか編著「白い思い出〜あの日の木田金次郎」に収録されていたものを使わせていただきました。原テキストにあたったわけではありません。文章は、インタビュー話者の処理が雑なので、新谷の方で少し整理しました。文中、「島本」とあるのは「島本融」。「田上」は「田上義也」。「小谷」は雑誌「美術北海道」の「小谷博貞」です。