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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



八月の樺太−小樽
 
 

 パスは、海岸沿いの道をかなりの速度で走ってゆく。初夏の陽光を浴びた海は明るく輝き、水平線に近い海面には、朱色の煙突を突き立てた貨物船らしい船がゆるやかに動いていた。
 トンネルをぬけると前方に、丘陵から海岸に傾斜してひろがっている小樽の市街が見えてきた。
 今日こそは絶対にあの女と会って話をきき出してみせる、と金子は遠い家並を見つめた。
(吉村昭/手首の記憶)

 新聞記者・金子。入杜してから、すでに十五年が経過し、社会部次長の地位にもついている。その間、かれは社会部記者として連日のように起る事件を追ってきた。
 その取材方法は積極的で、対象をつかむと執拗にからみつく。殺人事件があれば、腐爛死体でも死臭に顔をしかめることはせず係官の眼をかすめて死体の傍に近づこうとする。死体をおおう蛆の成育状態から死後の経過時間を推定しようとして、蛆をつまんでポケットにひそませたこともあった。
 そんな金子が何年も追っては掴めない取材が、寺井タケヨという、小樽に暮らす看護婦だった。頑とした取材拒否。決して話されることはない彼女の「手首の記憶」。

 昭和二十年八月十六日未明、樺太・恵須取。艦砲射撃、航空機による爆撃。十五日の終戦放送を無視するがごとく、恵須取町北方十キロの塔路町海岸にソ連軍が上陸した。寺井タケヨは、その塔路町大平の大平炭鉱病院に勤める看護婦だった。迫り来るソ連軍。東へ逃げる避難民の列。その避難民に銃撃をあびせるソ連機。町に残った看護婦23名と重傷患者8名。ソ連軍の陵辱、殺害を怖れた婦長の高橋ふみ子は退避を決意する。だが、時遅く、すでに彼女たちはソ連軍に包囲されていた。看護婦たちが選べた方法はひとつしかない。集団自決。

 ソ連軍は町の中へ入ってきていたが、彼女たちが自決をはかったことをいつの間にか知ったようだった。かれらは、手首に白い包帯を巻いている彼女たちに畏怖を感じるらしく、近づくことも声をかけることもしなかった。

 寺井タケヨは生き残ってしまった。

 吉村昭の小説は、あまりにも言葉が文章がドラマが精緻に組み合わされ書き込まれているので、部分を引用するということができません。基本的には、書きだしの数行を引用してお茶を濁すか、あるいは、全文引用(つまりその小説を読んでもらう)しか方法はないと思っています。上のごとき、引用の無礼をお詫びしつつ…

「お前が行ってくれよ」
 と、若い記者に言った。
 記者は、怪訝そうな顔をした。
「おれは、仕事があるんだ」
 と、かれが言うと、記者はようやく納得したらしくカメラマンと部屋を出て行った。
 おれらしくもない、と金子は胸の中で苦笑した。かれは、慰霊祭の光景を想像し、自分には堪えきれぬだろうと思った。冷静な記者だと言われてはいるが、彼女たちの二十余年ぶりに再会する姿を眼にしたら、嗚咽をこらえる自信はない。記者仲間に、自分の涙をみせるのはいやだった。

 札幌の護国神社での慰霊祭。遺族からの強い申し出もあるので避けることはできない。小樽の露地奥のアパート、三畳間の一室にひっそりと生活する寺井タケヨは来るのだろうか。

 午後二時を過ぎた頃、護国神社から記者がもどってきた。金子は、その記者の眼が充血しているのを見た。
「どうだった」
 と、金子が、傍の椅子に体を投げ出した記者にたずねると、
「取材なんてものじゃないですよ。体を抱き合って泣いてばかりいるんですから……。次長が行きたくない気持がわかりましたよ。もうあんな取材は二度とごめんだ」
 と、穏やかな記者には珍しく乱暴な口調で言った。