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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



六月の後志 (一)
 
 

 倶知安のある会社の敷地に松浦武四郎の歌碑があります。
 武四郎が、ソーツケ(宗助川)探索のため尻別川を渡った安政4年(1847年)6月1日(陽歴)を記念して平成9年6月に建立されました。碑にかかっている歌は、「西蝦夷日誌」より、

 あやうしと
 しりべつ川の
 白波を
 命にかけて
 けふわたりけり

 (碑文には)「岩内の乙名セベンケが棹をとり、…」と刻まれている。「命にかけて」渡るにあたって(渡れたのは)、アイヌ民族の力を借りることになった(借りたからだ)と刻む。武四郎が気持を素直に表現した和歌の背景を、左側の碑文もまた素直に刻んでいて、好感を持った。
(杉山四郎「武四郎碑に刻まれたアイヌ民族」増補改訂版)

 世の中には凄い人がいるもんだなと思う。 当然のことだが、道内の松浦武四郎碑は、啄木歌碑なんか問題にならないくらい数多い。それに、道南の江差町から始まって道北の音威子府や道東の果ての羅臼まで道内全域に広がっている。そのすべてを自分の脚で踏破し、さらに、碑ではないアイテム、例えば大雪山系の「松浦岳」とか洞爺湖畔の「武四郎坂」まで踏破する人がいるとは… 本当に恐れ入りました。
 何度でも言いたい。この人、凄いです。北海道つながりで、海を渡ってサハリン(樺太)の碑まで訪ねるは、時間を遡って、今は消失した武四郎碑まで市町村史に探すに至ってはもう言葉もない。わりと感情剥き出しの文章も私の好みだし。

 この(京極町・松浦武四郎歌碑)文を書き写していて、少々腹が立った。五〇〇字ほどの字数であるが、大変時間がかかったのである。字が小さく彫りが浅く、読みづらいからである。裏面に回ってみる人がいたとしても、読む気にならないのではないか、と思った。また、文章についてである。さすが、北海道史研究の草分け、高倉新一郎氏である。簡潔な文章に感心するが、彼はまた、アイヌ民族研究の第一人者でもある(と思う)。「…氷雪の中を虻田から札幌へ踏査する途中、…」、「…前後六回に亘って縦横に踏査し、…」、「…前後三回に亘って後志川の全貌を明らかにした…」と書く際、同行したアイヌ民族の人名も記し、彼らも称える気にならなかったか、と思った。高倉氏だけに、そのことをより強く思ったのである。

 いろいろなことを気づかされる。中でもいちばんハッ!としたのは、ここ。

 仁木町(後志地方)の稲穂峠付近の「松浦武四郎翁記念碑」広場に出向き、彼の碑の間近まで行った時、右側に小滝があるのに気づいた。水量はさほどではないが、繁茂する木々の間を流れ落ちていて、年中涸れることはないように見受けられた。かつて峠を上り下りする人々は、この清水をすくって飲み、また手拭を濡らし汗を拭いたのではないか。そしてそのそぱに「まつらの滝」と刻まれた石板が立っているのである。「まつうら」ではなく「まつら」である。しかし、とっさに、<彼の名を付けたな>と直感した。

 この小滝の写真なんか何回も撮っています。傍らの石版も当然見ていましたが、ついに、「まつら」が「松浦」だと気づく日は来なかったのでした。

 いったい何を見ていたんだろうか… 自信を失うことが多い震災後の日々。