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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



六月の小樽 (五)
 
 

 2010年6月1日、「ブログ改題 チャタレー夫人の居ない庭番」に一通のお知らせが。

お知らせ (閑人舎 新藤厚)  2010-06-01 13:25:57
牧田吉明が死亡しました。
これをご覧になったお知り合いの方、牧田と縁のあった方にお知らせします。
詳しくは新藤厚までご連絡下さい。
080−××××−××××

追伸 (園田 修)  2010-06-02 12:02:54
於 岐阜市雲龍町十八番地
  岐阜葬祭場前 善照寺
   電話〇五八−二四五−六二一七
通夜  二日 時刻は未定
告別式 三日 午前十時より
       親族のみにて密葬

 「牧田吉明」といわれても、もう知らない人がほとんどだとは思います。こういう人です。

1、「ピース缶爆弾」(以下「P缶」「P」と略す)製造・配布の真犯人は我々である。
 現在「被告」となっている増淵君達は無関係である。また、我々は直接関与していないが、「八・九機動隊」「アメリカ文化センター」の両使用事件についても、それらはともに我々が赤軍派に渡した「P缶」を、赤軍派に属する諸君が使用したものであると確信している。
2、我々「ピース缶爆弾」製造配布グループは、自称も他称も持たなかった。また具体的な政治行動を一緒にやるための「組織」として結成された訳でもない。一九六九年秋期闘争を「軍事的に具体化」するために、言い換えれば、口先だけの大言壮語主義を許さぬために、武器を調達し配布するという限定的な目的のために結集した「機関」と言うべきものであった。
(牧田吉明「我が闘争」/爆弾真犯人宣言)

 「我が闘争」が私家版で発行されたのが昭和59年4月。まだ出版地は「長野県北安曇郡小谷村」になっています。この「牧田吉明」氏がなぜ小樽と関係あるのかは、このブログの訃報通知に続いて書き込まれた一通が物語っています。

思い出します (massy)  2010-09-12 22:50:17
1992年11月20日、札幌で、山猫ワイン試飲会、参加させていただきました。この頃、ニセコアンヌプリのスキーなどもご一緒。小樽赤岩、赤岩峠で卵の差し入れもしていただきました。

 牧田氏は小樽で暮らしていた時期もあるのですね。氏の家が私の住んでいる桜町に近く、朝夕の通勤時には家の前を通っていました。あの時、木材などを伐っていた人影が、あるいは牧田氏だったのかもしれない。この家は幽霊屋敷として土地の人の間では名高く、そういう家にあえて住もうとするのはなるほど牧田氏かも…と思ったことをよく憶えています。家の隣りには「クレー射撃場」への山道もあり、じつに六十年代後期のブンド残党が最後に辿り着きそうなそれっぽい場所ではありました。「山猫ワイン」も近くの酒屋に並んでいたのをよく憶えている。

 ちなみに、ウィキペディアで牧田吉明氏の略歴をまとめてみると…
 1947年3月7日、のちに三菱重工業社長として采配を振り牧田天皇と呼ばれた牧田与一郎の末子(四男)として静岡市に生まれる。
 1959年4月、新宿区立戸塚第二小学校を経て、三菱財閥系列の成蹊中学校に入学。成蹊高等学校で反抗的な態度を続けたため、成蹊高等学校卒業生中ただひとり成蹊大学への推薦を拒否され、1965年、一般入試で成蹊大学政治経済学部と文学部に合格し、文学部文化学科に進む。入学と同時に三派系全学連の社会主義学生同盟(社学同)に参加。成蹊大学自治会の執行委員。1960年代末の政治の季節を、大学紛争、さまざまなハプニングでマスコミに露出。この時期の牧田を2年近くにわたって撮影し続けたカメラマンの福島菊次郎は「生真面目で実に純粋だった。すれていないボンボンだから、調子のいい奴にずいぶんたかられてもいましたねえ…」と語っている。
 1968年10月6日、背叛社火薬暴発事件が発生。友人が指名手配されたため、牧田も東京を後にして約1年間を関西で放浪。同じ頃、連続射殺魔事件の重要容疑者として捜査一課殺人係の訪問を受けるも、真犯人の永山則夫の逮捕により容疑が晴れる。
 1974年9月、大麻所持で逮捕、108日間拘留される。この間、爆発物取締罰則違反でも追及を受け、執行猶予つきの懲役1年10月の有罪判決を受ける。
 1975年3月、2歳下の女性活動家と結婚して長野県北安曇郡に転居し、父親の遺産で民宿「ぐぁらん洞」を経営。のち、小樽で葡萄農家や養鶏業を営むも失敗して離婚、札幌で飲み屋の経営に失敗、車上生活を経て大本教に入信し、京都に移住したこともある。
 晩年は岐阜市内の一間のアパートで生活保護を受給して暮らし、2010年6月1日、自宅で病気により亡くなっているのが発見された。

 三菱重工業の牧田天皇の息子が、最後は岐阜のアパートでの生活保護か… なんとも切ない話ではありますね。

 牧田吉明「我が闘争」。本全体が「故唐牛健太郎の荒御霊に捧ぐ」となっている本ですが、最終章の「唐牛健太郎の死」を引用して終わります。確かに、函館生まれの唐牛の死は、ある熱狂の時代と札幌の私との活断層帯であるとは今でも思っています。(久しぶりの、この新左翼レトリック、すごく苦しい…)

 神様は、もちろん相当に心のねじくれたお方であるから、もっと生きていて欲しかった男を、どんどん若死にさせる。
 唐牛は、生まれてくる時代を間違えてきた男の一人だった。きっとスサノオノ命の何度めかの生まれ変わりだったに違いない。アンチヒーローの時代における、かけ値なしのヒーローだった。
 (中略)
 唐牛には北海道で、不良少年収容所を、やってもらいたかったものだ。
 俺たちは、一体、何を喪ったのだろうか。もし仮に、ソ連軍の北海道侵攻があったとして、その際、遊撃戦の総隊長をやれたかも知れない、ただ一人の男を喪ったのだ。言ってみれば、そういうことだ。
 虐殺された末娘と、流浪する長男の神話によって保持されていた、安保ブンドの聖家族も、かくして終った。
 安保ブンドの鐘の声諸行無常のひびきあり、か……
 だが、少し哀しくはあっても、決して美しくないのは、何故か。
 だからこそ、この書は、故唐牛健太郎の荒御魂にささげられる。
                  昭和五十九年・三月十九日