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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



六月の小樽 (二)
 
 

兄よ! その後の御無音何とも御申訳なし。生は去月末旬より三週間許り北海の秋色に旅して二三日前漸く帰村したり、渡島・後志・胆振の山また海、我をして送迎に遑なからしめたる蝦夷が島根の詩趣は我これを携へて、都門兄に逢ふの日の土産とせん。
(石川啄木/明治37年10月23日 渋民村より 金田一京助宛書簡)

 啄木の来樽は小樽日報社の明治40年ばかりとりあげられますが、じつは、その三年前の明治37年10月にも、一度小樽に来ているのです。当時、19歳。来樽の目的は、詩集出版のため、義兄・山本千三郎(姉・トラの夫)への無心でした。
 往きは、10月1日、函館よりドイツ船ヘレーン号で海路小樽へ。そして、問題は帰り道。「渡島・後志・胆振の山また海」。金田一への葉書にも書いてある通り、啄木は、前年の明治36年6月に函館−小樽間が全線開通したばかりの北海道鉄道に乗って帰ったのです。海路を使わず、北海道の内陸部を鉄道で通ったのは、これが初めて。(というより、文学者としても、啄木は北海道鉄道横断の第一号ではないだろうか…)
 ちなみに、山本千三郎は、その北海道鉄道の「小樽中央駅」の駅長。後年、小樽日報社で諍いをする小林寅吉は山本駅長配下の助役でした。明治36年6月28日、「小樽中央駅」開業。翌明治37年、啄木がちょうど小樽に滞在していた10月15日、「高島駅」に改称。そして、明治38年12月15日、「中央小樽駅」に改称。小樽日報社時代の明治40年は「中央小樽駅」ですね。つまり、啄木は、現在の小樽駅のそれぞれの改称の時代に小樽で立ち会っている珍しい人でもあるわけですね。(ま、鉄ちゃん以外、どうでもいいような話題ですが…)

 現在の「小樽駅」に改称されるのが大正9年(1920年)7月15日。平成18年(2006年)3月、国の登録有形文化財に指定されています。小樽駅の写真を探していて、面白いサイトを見つけました。「駅弁資料館」。
北海道・小樽駅・イクラ入りの駅弁
北海道・小樽駅・その他の駅弁

 「疑義駅弁」という概念が面白い。東京でこんな「小樽」売ってんだ! (サイトの閲覧者「15715833」人って、凄くない? そんなにみんな駅弁が好きなんだ!)