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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



六月の小樽 (一)
 
 

吾妻「またケンカかい」
圭骸「いえ、プロレスラーの三沢がね」
――三沢光晴、二代目タイガーマスク、カミカゼ・ミサワ、プロレスリング・ノア社長。亡くなっちゃったねえ。
圭骸「うん」
――なんだかここ半年ぐらい、いろんな人の訃報がたて続いている気がします。
吾妻「びっくりしたけどさあ、ちょっと前のことなんじゃないか」
圭骸「ここのところ突然の死のニュースが多かったでしょう、清志郎とかマイケル・ジャクソンとか。その種の報道見ないようにして、全部なかったみたいに振舞って生活してたのよ。脳内<もしもボックス>を駆使して」
吾妻「パラレルワールド・テーマか」
(吾妻ひでお,中塚圭骸「失踪入門」)

 三沢光晴。2009年6月13日、三沢は広島県立総合体育館グリーンアリーナで行われたGHCタッグ王座選手権試合に挑戦者として出場。試合中、齋藤彰俊の急角度バックドロップを受けた後、意識不明、心肺停止状態に陥った。リング上で救急蘇生措置。救急車で広島大学病院に搬送されたが、午後10時10分に死亡。享年、46歳。死因はバックドロップによって頭部を強打したことによる頸髄離断(けいずいりだん)。

 けれど、本当の死因は働き過ぎかな。ジャイアント馬場、最後の弟子。

 地方に行くとタイガーマスクだった三沢、超世代軍で鶴田と戦っていた三沢― つまりテレビのプロレス中継が充実していた頃の三沢光晴を観に来てくれるお客さんがいるんだよ。そういう人たちが、1年に1回しか地元に来ないプロレスの興行を観に来て、俺が出てなかったらどう思う?
(徳光正行「伝説になった男 三沢光晴という人」)

 三沢光晴。1962年6月18日、北海道夕張市生まれ。父親は北海道炭礦汽船に勤務していたが、三沢が生まれて間もなく夕張炭鉱が閉山同然の状態となったため、一家は埼玉県越谷市へ。

吾妻「それで三沢選手と姉ちゃんになんの関係があるの?」
圭骸「姉がね……僕にその直後の『週刊プロレス』を見せるんです。これ、完売した貴重な号だからあげるって、三沢の訃報をレポートしたやつを!」
――で、それを目の当たりにして<もしも世界>から強引に引き戻されちゃったって訳だ。
圭骸「心肺停止後の写真とか載ってるんだもの。心に傷が走る音が聞こえましたよ。ザクッていったよザクッて!痛いよ辛いよ怖いよ」
吾妻「それは、お姉ちゃんの親切なのか悪意なのか? そっちのほうが俺は気になるけどな」
(吾妻ひでお,中塚圭骸「失踪入門」)

 夕張か… (あんなに、ひっきりなしに行っていたのに)もう何年も、忙しい、忙しいを理由に、行っていない。

 いったい何がそんなに忙しいのだろう? そんな言い訳ばかりの毎日に、思ってもいなかった訃報が届くことが多くなったような気がする。それは、たとえば、三沢。

圭骸「吾妻さんは自分の死と自分以外の死、たとえぱ家族とか思い入れの深い存在の死と、どちらが怖いですか?」
吾妻「うーん、やっぱり家族だろうね。自分にはほとんど執着してないから」